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ブラッシュアップ不足バージョン

オヤジハザード プロローグ

 プロローグ

 東京都千代田区に位置する四階建てのビル、その三階に入居しているオフィスに森重はいた。
 四十歳の森重は、まごころ出版という従業員数四名の出版社に勤めていた。創業以来、まごころ出版の主な刊行物は旅行情報誌で、森重も入社してからは取材のために日本中を旅行している。月給は手取りで三十万円を切るが、人間関係の良好な現在の職場に森重は全く不満が無かった。
 「社長、一服してくるって言って出ていってから二十分くらい経つね」森重は言った。
 「倒れてたりしてなければいいけど。血圧が高すぎるからいつ倒れてもおかしくないって、普段から自分で言ってるし、社長」従業員の橋本が冗談のつもりで言った。
 「社長、今日は今朝から体調が悪いみたいで、ずっと咳き込んでいましたしね」従業員の島村が言った。
 「私、ちょっと様子を見てきますよ」
 そう言って、従業員の野村はオフィスを出て行った。
 野村がオフィスを出て行った後も、パソコンのキーボードの無機質な打鍵音が鉄筋コンクリートの壁や床に反響し続けた。
 記事を書く段階よりも、森重は取材の段階を好んだ。森重は、書きかけの奈良市特集の記事で埋め尽くされたパソコンのモニターから目を背け、アンティーク調の壁掛け時計を見やった。午後2時52分。野村がオフィスを出て行ってから十分以上が経っていた。
 「私も一服してきます」
 そう言って、森重はオフィスを出た。社長と野村は煙草をふかしながら長話でもしているのだろうと森重は考えていた。
 まごころ出版のオフィスが入居しているビルで喫煙が可能な場所は屋上だけだった。森重は階段を上がった。そうして、無骨なドアを開けて、屋上に出た。
 曇り空の隙間から差した陽はスポットライトのようで、その明かりは、屋上にいた野村と社長の姿を浮き彫りにしていた。
 野村は、仰向けに倒れたまま、ぴくりとも動かなかった。社長は、野村に覆いかぶさり、上体を小刻みに動かしていた。
 森重は、最初、呆然となって二人を見詰めた。少しして、我に返り、「何をやってるんですか、社長!?」と叫ぶ。
 森重の叫び声が木霊してすぐ、社長の動きがぴたりと止まった。社長は、ゆっくりと振り返り、森重と目を合わせた。普段の温厚な顔、その面影すらない憎悪に満ちた社長の顔に、森重は恐怖を覚えた。
 社長は、訳の分からない言葉で喚き、立ち上がり、森重に向かって全速力で走り出した。距離を詰めて飛び掛かろうという意図が社長の動きには表れていた。その獣のように獰猛な動きが、森重の恐怖を強めた。森重は、引き攣った悲鳴を上げ、社長に背を向け、階段を駆け下りた。
 四階に入居している雀荘は営業中だった。恐怖でパニックになっていた森重は、何の考えもないまま雀荘に駆け込んだ。雀荘には麻雀卓が六卓あった。その内、一卓のみが使用されていた。店員と客たちは、駆け込んできた森重に怪訝な目を向けた。
 店員と客を目にして安心感を得た森重は、冷静になり、先ほど屋上で見た野村と社長の様子を思い返し、あれは暴行だったと結論付けた。警察に通報すべくスマホを取り出すが、1を二つ入力したところで社長と会社への思慮が脳内を駆け巡り、森重は警察に通報することを躊躇した。森重が0を入力する踏ん切りがつかないうちに、雀荘の出入り口のドアが激しく開かれた。ドアを開けたのは社長だった。
 森重は再び恐怖に駆られ、店の奥まったところへ走って逃げ、それから、出入り口のほうを見やった。社長は出入り口のところから一歩も動かず、血走った目で店内を見渡しながら、訳の分からない言葉を喚き散らしていた。 
 「ウけるな、このおっさん」麻雀卓を囲んでいた若い男たちの一人が言った。野球帽を目深にかぶった彼は、笑いながらスマホのカメラを社長に向けた。「リアルのヤク中じゃね?」
 社長は、スマホのカメラレンズを睨み付け、それから、野球帽の男に向かって走り出した。
 麻雀卓を囲んでいた若い男たちのうち三人が、社長の行動に驚いた様子を見せた。野球帽の男は驚きのあまりにスマホを床に落とす始末だった。麻雀卓を囲んでいた若い男たちのなかで最も体格の良い坊主頭の男だけが一切動じていなかった。
 坊主頭の男は席を立ち、「やんのか、こら!? 殺すぞ!」とドスの利いた声で叫んだ。その声を意に介さず、社長は椅子に座ったままの野球帽の男に飛び掛かった。飛び掛かった勢いそのままに、社長は野球帽の男を床に押し倒した。その後すぐ、耳をつんざくような悲鳴が店内に響き渡った。その悲鳴が野球帽の男のものだと周囲の人間が理解するのには少しだけ時間が掛かった。
 「何してくれてんだ、こらぁ!?」
 そう叫んで、坊主頭の男は野球帽の男に覆いかぶさっている社長の右脇腹を蹴っ飛ばした。恰幅のいい社長が吹っ飛ばされるほどの強烈な蹴りだった。社長が蹴り飛ばされたのと同時に、野球帽の男の首から大量の血が勢いよく噴き出した。その血は坊主頭の男のジーンズに吹きかかった。坊主頭の男は唖然とした様子で、自身のジーンズが赤く染まっていくのを見詰めた。
 「救急車」」店員が素っ頓狂な声で叫んだ。「救急車か警察!」
 店員の声で我に返った坊主頭の男は、「止血しろ!」と、一緒に麻雀卓を囲んでいた二人に向かって叫んだ。野球帽の男の首からは、勢いは弱まってきたものの出血が続いていた。野球帽の男は頸動脈を引きちぎられていた。
 坊主頭の男から命令を受けた金髪の男と茶髪の男は血の気の引いた顔で、「止血とか、無理だ」と口を揃えて言った。
 「本当にイキってるだけだよな、お前らは!」坊主頭の男は怒鳴った。
 坊主頭の男は片膝をつき、野球帽の男の出血している部分を両手で抑えた。そうして坊主頭の男は、野球帽の男に大声で声を掛けた。野球帽の男は全身を痙攣させながら息をひゅーひゅーと吐くばかりで、坊主頭の男の声に反応を示さなかった。
 蹴り飛ばされて蹲っていた社長が徐に立ち上がった。社長は奇声を上げ、坊主頭の男に駆け寄り、坊主頭の男の頭部を蹴っ飛ばした。坊主頭の男は仰向けに倒れた。社長は坊主頭の男のそばに立ち、坊主頭の男の頭を踏みつけた。蹴られた際に脳震盪を起こしていた坊主頭の男は全く防御を出来なかった。社長は何度も坊主頭の男の頭を踏みつけた。革靴が頭蓋骨を強打する鈍い音は、何度目かで、トマトが潰れるような音に変わった。その音が聞こえて、ようやく、社長は踏みつけるのを止めた。
 社長が踏みつけるのを止めた、そのすぐ後、金髪の男が社長に駆け寄った。金髪の男の手には刃渡りの長いナイフが握られていた。金髪の男のナイフは社長の背中に音もなく突き刺さった。左の肩甲骨の下から心臓に向かって深々と。
 金髪の男はふらふらと後退り、「やってやった。イキってるだけじゃねえ、俺は」と震える声で呟いた。
 社長は、よろめき、俯せに倒れた。
 沈黙が、場を支配した。
 少しして、森重は恐る恐る社長に近付き、「社長」と声を掛けた。
 社長は、絶命していた。
 人間の生死を判別し慣れていない森重は、社長の状態を正しく判断できず、助かる望みがあると信じ、スマホを取り出し、救急車を呼んだ。
 金髪の男と茶髪の男は森重が救急車を呼んでいる間に雀荘から逃げ出した。
 救急車を呼んだ後、森重はスマホをポケットに仕舞いながら、野村のことを思い出した。野村の安否を確認するために、森重は急いで雀荘を出た。
 階段を上がろうとしたとき、下の階から島村に声を掛けられ、森重は足を止めた。
 「森重さん、何かあったんですか? 雀荘、すごい騒ぎでしたけど」
 「社長が」それだけ言って、そこから先に何を言うべきか分からず、森重は口をつぐんだ。
 「社長がどうしたんです?」島村が重ねて尋ねた。
 「野村さんが屋上に居るんだ」森重は声を絞り出した。「私は野村さんの様子を見てきます」
 森重は階段を駆け上がった。そうして、屋上に出て、倒れたままの野村に近付き、小さな悲鳴を上げた。
 野村は野球帽の男と同様に頸動脈を引きちぎられて絶命していた。彼女の華奢な体は血だまりに浮かぶ笹舟のようだった。
 「なんてことだ」
 愕然としたまま森重は呟き、頭を抱えた。
 強い風が吹いて、野村の身に付けていたスカーフが舞い上がった。森重は手を伸ばしたが、届かず、スカーフは空を漂っていった。
 スカーフを追いかけて、森重は屋上の縁まで歩を進めた。そうして、悲鳴が響き渡った。
 森重は道路を見下ろした。若い男が、後ろから壮年の男に組みつかれ、首筋を噛まれている様が目に入る。
 森重が唖然としている間に、更にもう一つの悲鳴が聞こえた。若い男が噛まれている所から少し離れた所で、年配の女性が、若い男と同様に背後から中年の男に噛みつかれ、もがいている。
 森重はすぐに警察への通報を済ませ、それから、二人のオヤジが人肉を貪る様を、畏怖する目で見下ろし続けた。

 この日、東京都千代田区で起こった九つの暴行事件、その全ての被疑者は、四十代から六十代の男性だった。
 合計で三十二人もの死傷者を出した九つの暴行事件、それらは、オヤジが突如として凶暴化するオヤジハザードの始まりでしかなかった。