第五章 森田とアケミ
「俺はバイセクシュアルだけど、鈴木くんのことは絶対に抱かないね」
私の住まい、腐り切った木造アパートの一室で、女と二人で一枚の布団に横たわりながら、森田が言った。私の目を見据えながら。
大学の講義を終えて帰宅したばかりの私は玄関から二人を見下ろして、森田と寝ている女が私と同じ大学に通う人間であることに気付いた。森田に乳首をさすられながら、女は私の顔を凝視していた。
「容姿の問題じゃない。性格の問題でもない」森田が続ける。「この鈴木くんって男は、陰のうの皺を撫でられたとしても身震い一つしない男なんだ。もっと言うなら、肌と肌が触れ合う温もりに凍える男なんだ。不感症だなんていうありふれた話じゃないよ。心の強張りがそのまま神経に伝達して、肉体までをも岩のように変えてしまっているんだ。川底に長く放置された、岩。水流に削られすぎて凹凸を失ってしまった彼を、つかんでやることは俺にはできない」
「俺はバイセクシュアルじゃないから、あなたのような男にはナニもつかませたりしない」私は言った。
森田は笑いながら私を指差して、「こんなつまんない奴のどこがいいの」と、一緒に寝ている女に尋ねた。その問いに、女は答えなかった。
私はバイト先へ出掛ける準備を素早く済ませ、布団に横たわったままの二人を残して部屋を出た。
バイトが終わり、深夜に帰宅した。森田はまだ私の部屋にいた。女はいなくなっていた。
森田はパンツだけを身に付けた格好で足を投げ出し、たばこを吸っていた。
「蝉がうるさくって、かなわないよ」私を見やり、森田が言った。「夜にまで鳴くなんて、本当に熱してきてるんだね、地球」
すっかり珍しくなくなった熱帯夜だった。
「ミンミンゼミですね」私は言った。
「鳴き声で分かるものなんだね」森田は自前の灰皿でたばこをすりつぶした。
私は網戸越しに桜の葉を見た。隣家の小さな庭から突き出した桜の枝先が、二階にある私の部屋の目と鼻の先にあった。私の部屋から漏れ出た蛍光灯の明かりを受けて、蛍の光みたいにして、虫食いだらけの葉は際立っていた。
「蝉はその桜の木に群がってるんじゃないかな。切っちゃおうよ、鈴木くん。今すぐにでも」
「勝手には切れませんよ」
「誰も構いやしないよ」
「人が住んでいるんですよ、あの家」
「あんな廃墟に?」
「あなたが今いる場所だって廃墟でしょう」私は森田の足を蹴っ飛ばした。キッチンという名の細い通路、あとは六畳一間があるだけの空間に生活必需品を詰め込んであれば、森田に足を引っ込めてもらわないことには寝っ転がることすら適わないのだった。
森田が足を引っ込めた。私は寝っ転がり、天井の染みを数え始めた。
「鈴木くん」
「なんですか」
「ここで、うんこしていいかな? 汚い共同便所で用を足すのは耐え難い苦痛なんだ」
「勘弁してくださいよ」
森田は文句を言いながら立ち上がり、パンツだけを身に付けた格好のまま部屋を出ていった。
学ぶ意思のない人間にとっては、大学など若さを飼い殺す場所でしかない。私も森田も、若さを飼い殺していた。
真下の部屋の住人が呻いた。この狂人が安らかに過ごす夜を、私はまだ知らなかった。
「廊下にも響いてるよ、この呻き」森田が部屋に戻ってきて、私の近くに座った。「ここの住人はみんな寛大だね。毎夜毎夜これをやられて文句一つ言わないなんて」
「耳の遠い老人、疲弊しきった若者、事なかれ主義の愚者、全てを諦めている弱者、そんなのばかりが住んでいる場所ですからね、ここは」私は天井に向かって右手を伸ばした。天井から垂れた一本の細長い埃、あるいは蜘蛛の糸に、その手は届かなかった。立ち上がってまで、それをつかもうとは思わなかった。
「俺がビシッと言ってやろうか。黙らないと尻の穴でしか呻けないようにしてやるぞ、って」森田が私のそばに座り、言った。
「ほっとけばいいんですよ。数分で終わることなんですから」
「鈴木くんは事なかれ主義の愚者ですか」
「何も求めていないだけの人間です」
「なら、俺と同じだ」
俺とあなたでは全く違う、と言うのが面倒で、私は右手を下ろし、黙った。
「不思議だね。人が唸ってる間は蝉が黙ってる」森田の言う通り、蝉は押し黙っていた。「聞かないんだね、鈴木くん。俺と寝てた女のこと」
「女のことはどうでもいいです。俺が聞きたいのは、どうやって俺の留守に部屋へ入ったかだけです」
「一階に住んでいる大家さんに言ったんだ。俺は君の親族で、連絡のつかない君に会いに来たんだって。そうしたら、この部屋の合鍵をくれたんだよね。身分の証明も何にもなしに」
「ひどい賃貸だ」
「古き良き時代の名残さ」
「返しといてくださいよ、その鍵」
「大家のおじいちゃん、もうこの鍵のことなんて忘れちゃってるよ、きっと」
呻きが泣き声になり、それは徐々に怒声へと変わった。しばらくして、怒声は唯の呻きに戻った。
「君のことが好きなんだよ・・・・・・俺と寝てた彼女は」
「知ってますよ」
「知ってた? 意外だね」
「馬鹿じゃないんだから分かりますよ、それくらい」
「大学に入ってからすぐ、君に思いを寄せたというんだから、一年以上の片思いというわけだ、彼女」
「苦学生が珍しかったんでしょう、お嬢様にとっては」
「お嬢様って、彼女、ちゃちな中小企業の社長令嬢ごときじゃないか」
「金の苦労を知らない奴は全員、お坊ちゃんかお嬢様ですよ」
森田は座ったまま手を伸ばし、部屋の隅にある小型の冷蔵庫から、飲み口の開いた缶ビールを取り出した。飲むかい、と森田が尋ね、いりません、と私は答えた。
「小中高と名門の一貫校に通って、本物のお坊ちゃんに囲まれて育った彼女が鈴木くんの貧しい鋭さに好奇心をくすぐられたっていうのは、その通りだよ。彼女が僕に話してくれた、過去の男たちに対する浅ましい批評がそれを物語っていた」森田は缶ビールを一口すすった。「彼女にとって、君とのことは文字通りの火遊び」
「俺とのことなんて何一つありはしませんよ」
「君との思い出を散々と聞かされたんだけど、あれは全部、彼女の妄想かい?」
「火遊びですらない、一人遊びなんですよ」
「一人遊びをするほど初な女じゃなかったよ」
「それもそうだ、あなたに抱かれるくらいの女なんだから」
「この顔に迫られて拒んだ女にはまだ一度もお目にかかったことがないね」森田は自身の整った顔を指差した。「君のことで長いこと相談に乗り続けてあげたからハードルも下がってたしね。初な女じゃないけれど、軽い女でもなかった。媚びても無反応な君に対する当てつけで、この部屋でセックスしようと提案するくらいに卑しい普通の女さ。君が帰ってくる時間を見計らったのは俺だけどね」
「学力と知能は必ずしも比例しない。俺が通っていた高校の低能どもと同じレベルですよ、あなたも彼女も」
「全ての人間は生まれながらにして平等である。学の有る者も無い者も、綺麗な顔の者も汚い顔の者も、体の強い者も弱い者も、金持ちも貧乏人も、善人も悪人も、全て平等に汚れた骨と肉だ」
「すばらしい独立宣言をありがとう」私は眠りを求めて両目を閉じた。「激しく同意する。どこへ行こうと、どんな人間たちと交わろうと、何も変わらなかった」
狂人の呻きが止んだ。蝉がまた鳴き始めた。
場末の劇場なんかよりも遥かに広い教室には大型のプロジェクターや複数のディスプレイが完備されている。高名な教授が自慰に等しい講義を垂れる。学習のために大金を注ぎ込まれた空間で、出席した学生の多くが単位だけを求めていた。
「鈴木、あの森田とつるんでるってのは、本当?」学友が言った。講義が始まってから二十分たらず、そんな短時間でさえ黙っていられない男だった。
「どの森田だよ」私は答えた。
「留年の森田だよ」
「留年なんてざらすぎて、分からん」
「七年生の森田だよ。分かってんだろ、鈴木」
「知らないよ、そんな奴」
「マジ? ああ、安心した」学友が私の近くへ椅子を寄せた。「あんな屑と付き合ってるって噂が本当だったら、お前と疎遠になるところだったよ」
「屑とは手厳しいね」
「屑だろ。苦労して手に入れた高学歴に自分で傷をつける留年くんなんか」
「留年するだけで屑認定か」
「留年だけじゃないって。大学内の女を片っ端から食って回ってるんだよ、森田は」
「何を根拠に言ってるんだか」
「お前、潜りかよ。内の大学じゃみんなが噂してることだろ、森田の女狂いは」
何事に関しても噂以外のソースを持たない彼の程度は知れていた。
高名な教授が不快感を咳払いで表したが、それは私が座っている場所の逆方向に向かって発せられたものだった。
「そういや、鈴木、今夜って暇?」
「バイトがある」
「サボっちまえよ、仮病でも使って」学友が幼稚に笑った。「金を稼ぐよりも、コンパだ」
「金がなくちゃコンパもくそもないだろ」
「バカみたいにバイトしてんだから、ちょっとくらいは持ってるだろ、金。行こうぜ」コンパを主催するサークルの名を学友が発声する。「知っての通り、上玉ぞろい」
「我らが学び舎の汚点の一つ、セクハラパワハラ当たり前の縦社会が主催か。上の男どもに傷物にされてヘラヘラ笑ってる馬鹿女しかこないだろ、それじゃあ」
「好きだろ、そういう女」
「好きだね」私は嘘をついた。
学友は顔面に満足を広げた。「後で時間と場所を教えるわ。携帯電話、ちゃんと持ち歩いとけよ。俺はもう行かなくちゃ。服を買いに行く約束があるんだ」
講義のさなか堂々と教室を出ていく学友の背中に、私は、「屑はお前だ」と声を浴びせた。学友の耳には届かない小さな声だった。
上下が不揃いのジャージ姿で穴だらけの靴下にサンダル履きの男が、立っていた。私の部屋の窓に向かって伸びる桜の枝を見上げながら、立っていた。
「桜紅葉が泣いている。お母さんの指先から切れ落ちて、遠い地べたに落ちていく、それが嫌だと泣いている。土に返る兄弟姉妹を見下ろしながら泣いている。いつまでも涼風にあやされていたい。いつまでも小鳥のさえずりにあやされていたい。あ、落ちた。空をゆっくりと漂う。地べたに向かって。生まれ変わるなら、秋に咲く花になろう。お母さんが誇らしげに抱いてくれる花になろう」
言い終えた男は振り返り、私を見た。男の伸びきった髪と髭が夕日を浴びて褐色にあせた。僅かに覗く小さな目は悲しいほど澄んでいた。
私は小さく頭を下げ、男も小さく頭を下げた。
私は二階へ上がり、自室に入った。
「ああ、いい男だ」部屋の隅で文庫本を読んでいた森田が私を見て言った。「スーツなんか着ちゃって、どうしたの、鈴木くん」
「インターンシップ」私は答えた。
「外資系のお遊びか」
「その内にどこの企業でもやりだしますよ」
「二年生の君に就活はまだ早いでしょう」
「遅すぎたくらいですよ」
「全うだね」森田は文庫本を閉じた。「夏目漱石の、こころ。君も読んでみるかい?」
「読みません。中学の頃にもう読んでますから」
森田が驚きの表情を見せた。「信じられないね。これを中学生の頃に読んだにしては、君は余りにも無機質すぎる」
私は森田を無視して外行きのラフな服に着替えた。
「今日もバイトかい?」
「バイトです」
夜気の混じった風が部屋に入ってきた。部屋のあちこちに積み上がった本の山が冷たく震えた。私は窓を閉めた。
森田が本の山を一冊ぶん高くした。
部屋にある無数の小説はすべて、森田が持ち込んで置き去りにしたものだった。
「俺も一緒に行こう。鈴木くんが働いている姿を見たい」
「俺は洗い場だから、姿なんて見えませんよ」
「一杯やりたい気分なんだ。君が働くところで」
「安い店じゃないですよ」
「親からの仕送りが腐るほど余ってる。諸々のお金を女の子が工面してくれるから」
私と森田は一緒に部屋を出た。
「あの髭もじゃの人、いつも下の部屋で呻いてる人かい?」
森田が顎で指した先で、男が桜の枝を見上げ続けていた。
私は黙って歩を進めた。最寄りの駅に向かって。
森田の長い脚が私と歩調を合わせるためにぎこちなく動いた。
人で溢れた駅、人で溢れた電車、人で溢れた繁華街、人にもまれながらバイト先へとたどり着く。安酒を高値で提供する下劣なバー。
「頑張って。応援してるから」森田はそう言って、入店した。
下劣でありながらも客足の途絶えない店で、洗い場の仕事は尽きなかった。洒落たバーの体裁でありながらも居酒屋で見るような酒のつまみを種類豊富に提供するため、グラスよりも小皿を洗う機会が多かった。一貫性のない残り物を破棄し、一貫性のない容器を洗う。グラスにこびりついた臭気が酒の不味さを物語る。こんな店で時間を過ごす客を愚かしく思う。こんな店で労働にいそしむ自分を愚かしく思う。苦痛を枷にして、時間は鈍重に進んだ。
「鈴木くん、これから休憩だよね」バーテンダーが洗い場を覗いて、言った。「俺もこれから休憩なんだけど、ちょっと手を貸してくれないかな。休憩に出るついでに質の悪い酔っ払いを外に出したいんだ」
私は了解し、洗い場を離れた。
薄い紺色の照明の下、カウンターに片肘をついている森田をバーテンダーが指差した。
距離を詰めて、バーテンダーが森田の左肩をつかむ。
森田は空ろな目をバーテンダーに向けて、それから私を見て、目を伏せた。
「お客様、少し店の外に出てもらえますか」バーテンダーが言った。
動揺を全く見せず、森田は立ち上がり、従順に、バーテンダーの後に続いて外へ出た。
森田とバーテンダーは店の横の路地に入った。私が二人から遅れて路地に入ったのと同時に、バーテンダーが森田の胸倉をつかんだ。
「俺を見てずっとヘラヘラ笑ってたのは、何なの? ヤクでもきめてるわけ?」バーテンダーが森田に向かって言った。
森田は微笑んだ。
「いかれてんのか」バーテンダーが言った。
「月並みの文句を並べるんじゃないよ」微笑んだまま、言う。「太宰治って、知ってます?」
唐突な問いにバーテンダーは面食らい、言葉を詰まらせた。
「彼が書いた、人間失格っていう小説に、あなたそっくりな人物が出てくるんです」森田が続ける。「いかにも上手みたいにごまかしながらまずい鮨を握っているおやじ。いかにも上手みたいにごまかしながらシェイクしてげろ同然のカクテルを生み出し続けるあなた。完全に一致してしまって、笑いが止まらなくなってしまったんです」
大通りから路地に流れ込む光が弱まって、私たちの影は薄まった。
バーテンダーの右のこぶしが森田のみぞおちを強打した。森田の微笑みが苦悶の表情に隠れた。バーテンダーが胸倉を放すと、森田は膝から崩れた。
「げろを生み出してみろよ、屑」右手を左手で撫でながら、隠し切れない興奮で上擦った声を出すバーテンダー。
「シェイクしてくれよ。あんたのいかしたテクで。そうしてくれれば無限に吐ける」膝をついたままバーテンダーを見上げ、苦しい呼吸で乱れた声を出す森田。
バーテンダーが森田の胸を蹴飛ばした。森田は仰向けに倒れた。
「二度とこの辺りに顔を出すなよ」バーテンダーが森田に唾を吐きかけた。
「顔を出したら?」森田が言った。
「殺す」
バーテンダーは路地から出ようと数歩歩き、すぐに踵を返し、森田を真上から見下ろせる位置に戻った。
「お客様、代金のお支払いが済んでおりません」バーテンダーが請求額を告げた。明らかに多く見積もられた額だった。
森田は上体を起こし、財布から取り出した数枚の札をバーテンダー目掛けて投げつけた。「釣りはあんたのポケットに仕舞いなさい。散髪代にすればいい。不潔に伸びた髪をシェイクのたびに整え直す姿はあんまりにも滑稽だから」
バーテンダーは散らばった札を全て拾い集め、森田の胸をもう一度蹴飛ばしてから、路地を後にした。
再び天を仰いだ森田は、笑った。森田の目線の先を追いかけて、私も天を仰いだ。背の低いビルとビルの狭間に細長く覗いた夜空は、雲一つなく、星一つない闇だった。
「ここは、内の学生がバイトするようなところじゃないよ」森田はたばこを取り出し、火をつけていないそれを仰向けに寝たままくわえた。
「高校時代のバイトが似たようなものだったんで」私はビルの壁に背中を預けた。無骨なコンクリートは見た目通りの冷たさで、私を不快にした。「やり慣れている仕事がよかった。給金も洗い場にしては悪くないですしね、ここは」
遊び盛りの男女が二人、私と森田がいる路地を覗き込んで、去っていった。
「今日、生まれて初めて人に殴られたよ」森田は立ち上がり、たばこに火をつけた。「いい経験になった」
「癖にならないようにしてくださいよ」
「ならないよ。いい経験にはなったけど、最低の気分だから」
強い夜風が吹き抜けた。たばこの火の粉が少し舞って、路地の寂しい空気に溶けた。
「あのバーテンダーを暴行と恐喝で訴えたら、俺のために証言してくれるかな、鈴木くんは」
「嫌ですよ、面倒くさい」
森田は大きく笑った。そうして歩き出し、手を振りながら、夜の明るい方へと紛れていった。
アケミの住まいは安価ではない賃貸マンションだったが、豚小屋も同然である部屋の有様は私の住まいと大差なかった。
衣服や化粧品が無数に乗っかったダブルベッドで股を開くアケミの化粧を取ったその顔は、二十二歳でありながらも既に老い始めていた。性を生業にする女は、早い時間の流れのなかで生きていた。
「鈴木くん、お金、本当に大丈夫なの?」愛撫に身震いしながらアケミは言った。「バイトのしすぎで学業や就活がおろそかになったら意味ないでしょ。言ってくれれば幾らでも出すから」
「人の金なんて当てにしない。ましてや体を売って稼いだ金なんて」アケミの股から舌を離し、私は言った。
「お金はお金じゃん」言ってから、喘ぐ。
私の指がアケミの体を這う。当の昔に朽ちたエデンを這いずり回る蛇のようにして。
「今日は手じゃなくて口でやってくれ」勃起してから、私は言った。
「いつも言ってるけど、性病なんて持ってないよ、私」
「口でやってくれ」
アケミが言われたとおりにして、私は果てた。
精液を飲み込み、哀れなほど不細工な笑顔を作ってから、アケミは再び私に金を与えようとして、ベッドの上に一万円札を五枚、置いた。私は、「いらない」と言った。
アケミが小さな涙をぼろぼろと零した。
私はアケミの住まいのバスルームを借り、シャワーを浴びた。
私がシャワーを浴び終えても、アケミはまだ泣いていた。私は、ベッドの上に置きっぱなしにされている五枚の一万円札を全て自分のポケットに押し込んだ。
アケミは泣くのをやめて、微笑んだ。
微笑むアケミに何の言葉も掛けず、私はアケミの部屋を出た。
「あけましておめでとう。それと、おはよう」寝ぼけ眼の森田が言った。「バイト、いつもより遅くまでだったんだね。何時に帰ってきたの?」
「四時」私は答えた。
「今、何時?」
「十一時」
私はカーテンを開けた。太陽の光が私の部屋に満ちていた暗がりを四隅や物陰に追いやった。
「鈴木くんと年を越そうと思って待ってたのに、いつの間にか寝ちゃってたよ」森田は上体を伸ばした。「鈴木くんの布団、使わせてもらっちゃってたけど、君は帰ってきてからどうしてたの?」
物をどけて作った小さなスペースを私は指差した。露になっている傷み切った畳。「そこに座って寝てました。バスタオルを何枚も重ねて掛け布団の代わりにして」
「寒い夜だったんだから、僕の寝てる布団に入ってくればよかったのに」
「男と一緒の布団に入るなんて御免ですよ」
森田は枕元に置いてあるビニール袋からカップそばを二つ取り出し、「年越しそばのつもりで買ってきたやつ。ちょっと遅くなったけど、一緒に食べよう」と言った。
私は礼を言い、名ばかりのキッチンに取り付けられた見すぼらしい流し台で鍋に水を入れ、コンロ台に乗っかったカセットコンロに火を点けた。
鍋を火にかけ、黙す。
太陽が照っていようとも、火が点っていようとも、身を切るような冷たい日であることに変わりはなかった。
水が沸騰したとき、私の部屋の玄関ドアが弱々しい力で二回、叩かれた。「お留守ですか」という枯れた声が後に続いた。
私は火を止め、沈黙を続けた。
もう二回、玄関ドアが叩かれた。
「留守かしら。困ったわねえ」枯れた声が言う。
「いますよ。今、開けますね」森田が立ち上がりながら言った。
私は森田を睨み付けた。森田は笑いながら玄関の鍵を開け、ドアを開いた。
肥満気味の老婆が廊下に立っていた。彼女の足下には大きな紙袋が二つ置いてあった。
「何か御用ですか?」森田が言った。
「これをね、藤本さんに食べていただきたくて」老婆は足下の紙袋から揚げ餅の詰まったパックを一つ取り出した。「あなた、藤本さんのお孫さん?」
「いいえ、違います。部屋を間違っていませんか? この部屋を借りているのは違う名字の人ですよ」
老婆は左手の人差し指を動かし、一、二、三、と数えた。「階段を上って三つ目のお部屋だから、藤本さんのお部屋で間違いないはずよ」
「鈴木くん、藤本って人、知ってる?」
森田の問いに私は首を横に振って答えた。
「藤本さんは引っ越されたんじゃありませんか」森田が老婆に向かって言った。
「そうかもしれないわね」老婆の表情が陰った。揚げ餅の詰まったパックを持つ手が寂しそうに縮こまった。
「その揚げ餅、俺がもらっちゃまずいですかね?」優しい声で、森田が言った。
老婆が微笑む。「どうぞ、食べて」
「ありがとうございます。いただきます」パックを受け取る森田。「ご自分で揚げられたんですか?」
「そうよ。新潟のおいしいお餅をね」言いながら、老婆は二つの紙袋を両手で持ち上げた。そうして、バランスを崩し、必死で持ちこたえ、表情を歪めた。
老婆の両脚はスウェットパンツがはち切れんばかりにむくんでいた。
森田は支えるようにして老婆の左腕をつかみ、「少し座って休んだほうがいいですよ。汚い部屋でも構わなければ、どうぞ上がっていってください」と言った。
「大丈夫ですよ。家もすぐそこですし」言ってから、老婆は私の部屋を覗いた。
私と老婆の目が合う。老婆が、こんにちは、と言い、私は頭を下げた。
「一階に降りるだけでも大変でしょう」森田が言う。
老婆は大丈夫を連呼しながら、大丈夫に見えない脚を動かしにかかった。
「一階まで荷物を持ちますよ」森田は老婆に二つの紙袋を手渡すよう促した。
僅かな躊躇の後、老婆は二つの紙袋を森田に差し出した。
森田は揚げ餅の詰まったパックを私に投げて寄越し、二つの紙袋を老婆から受け取った。
玄関ドアが閉まり、ゆっくりとした足音が遠ざかっていく。
私は揚げ餅の詰まったパックを流し台に置き、二つのカップそばに湯を注いだ。
十分後、私はカップそばを一つ平らげ、更に十分ほど、待った。森田は帰ってこず、私は伸びたカップそばも平らげ、引きっぱなしになっている布団に入り、眠りに落ちた。
白昼夢は悪夢だった。リクルートスーツに身を包んだ人々が崩壊寸前のプラットホームを埋め尽くす。私はその群れの中にいる。プラットホームに着いた薄汚い電車は満員で、新たに乗り込める人間は一握り。次の電車は来ない、というのが人々の共通認識。怒号と冷笑が狂気を膨らます中、人々は乗車のために死力を尽くす。やがてドアが閉まり、電車が走り出す。取り残された人々の絶望を眺めながら、私は自分がどこにいるのかを失念する。
「おはよう」目覚めてすぐ、私は森田の声を聞いた。
森田は私の部屋にある唯一の椅子に座っていた。そうして、揚げ餅を食べながら文庫本を読んでいた。
「今、何時ですか」上体を起こし、私は尋ねた。
「四時」
外光を遮るカーテンの小さな隙間から橙色の輝きが入り込んでいた。
「カップそば、僕の分も食べちゃったんだね」文庫本を読んだまま、言う。
「すぐ戻ってくると思って湯を入れてしまったんですよ」
「ごめん、鈴木くんに断ってから行けばよかったんだ。揚げ餅をくれたおばあちゃんがね、あの脚で近所に住む友達を訪ねて回って揚げ餅を配るんだって言うもんだから、その脚で歩いちゃ危ないって言って聞かせたんだけど、毎年の元日の決まりだからって頑固でさ。一人で行かせるのが危なっかしくって、付いて行っちゃったんだよね、俺。七軒も回って、帰ってきたのは今さっき」森田はポケットから一万円札を取り出した。「揚げ餅のおばあちゃんからお駄賃でもらっちゃった。欲しければあげるよ、鈴木くんに」
「いりませんよ」
「揚げ餅のおばあちゃん、その家の人だったよ」一万円札で、カーテンを指す。「桜が突き出している、その家の」
「廃墟に住む老婆にしては羽振りがいいですね」私は一万円札を指差した。
「お金はいっぱい持ってるみたいだよ」
「お金をいっぱい持ってる人は廃墟に住まない」
「旦那さんが元銀行員で支店長まで務めたって言ってたからね、おばあちゃん。定年後も銀行の関連企業に役職つきで再就職したとも言ってたから、相当の蓄えがあるはずだよ」
「あの老婆は会ったばかりのあなたにそんな話をしたんですか」
「人と話すことに飢えていたんだよ、きっと」
私はカーテンを開き、窓ガラス越しに老婆の住まいを見下ろした。
「妄想ですよ、きっと」私は言った。
「お金を貯めることはできるけど使うことはできない人がいるんだよ、鈴木くん以外にもね」
瓦が何枚も失われた屋根、古ぼけた室外機、閉めっぱなしになっている錆だらけの雨戸、冬でさえ庭を覆い隠す雑草、庭からはみ出した桜の枝。貯め込み、腐らせ、荒廃に心身を浸す人間。私は老婆に近しい感情を懐いたが、それに親愛の情は含まれていなかった。
「哀れですね」私は言った。
「そんな冷たい言い方をするなよ」
森田の眼差しが私を射抜いた。真剣な眼差しだった。その真剣さは、すぐに、浮ついた笑みに隠れた。
「おばあちゃん、去年の元日はまだこの部屋に藤本さんがいて揚げ餅をちゃんと受け取ってくれたって言ってたけど、去年はもう鈴木くんがこの部屋に入ってたよね。これって、心霊現象?」
「認知症」
「鈴木くん、去年の元日はどうしてたの?」
「実家に帰りました」
「なんで今年は帰らないの?」
「揚げ餅の老婆じゃないんだ、何でもかんでも話したりしない」私は頭を横に振り、それから、笑った。
森田の浮ついた笑みが消えた。少しして、森田はまた笑みを浮かべた。その笑みにはちゃんと重量があった。
「今日のバイトって、また深夜?」
「ええ」
「それなら時間あるよね。飯、食いに行こう。美味いタイ料理の店を見つけたんだ。おごるよ」
私はもう一度、老婆の住まいを見下ろした。それから、カーテンを閉めた。
「いいですね、行きましょう。但し、おごりは無しで」
私と森田は繁華街へ繰り出し、人込みに紛れた。目当てのタイ料理の店が休業日であったため、すぐ近くの和食店に入った。不味い料理を高値で提供する店だった。食後、遊戯場を備えたバーへ行き、ビリヤードで遊んだ。遊び慣れしている森田が私を痛め付けるだけの遊びだった。森田は酒を飲み、若い女を一人、口説いた。私はビリヤードの球を延々と突きながら、森田が女から引き出す無内容な話の数々を聞いていた。バイトの時間が迫り、店を出るまでの間、それは続いた。
森田と別れ、電車に揺られ、出来上がりの早い酔っ払いたちを避けながら道を歩き、バイト先に着き、尊敬できない同僚たちと挨拶を交わし、単調な業務に入り、一日が終わった。愉快な一日ではなかったが、前年よりは増しな元日だった。
お話のアリとキリギリスならば、アリは報われる。現実のアリとキリギリスでは、アリはキリギリスと同じ土に返る。
内定を得られない無限地獄による心身の疲労で、日々、希望をすり減らしていく四年生のアリたち。就職氷河期の日本で、彼等の多くが報われない努力の果てに苦難の多い未来を強いられる。
森田という八年生になったキリギリス。彼は相も変わらず遊び続けていた。在学のタイムリミットが迫るなかで。「休学っていう逃げ道もあるよね」自分で言い放ったそんな愚かしい言葉さえ実行に移さない森田。彼に安らかな未来などあろうはずもない。
彼等を見やりながら、三年生になった私は、アリの我が身を嘆いた。
愚劣な若者たちの宴。私と同じ大学に通う金の苦労を知らない同期が、親の仕送りだけで住まうマンションの一室に大学の仲間を集め、酒に浸り、悪口雑言を喚き散らす。
就活に失敗しても、親のコネで働き口は確保できるから大丈夫。就活に失敗しても、家業を継ぐから大丈夫。就活に失敗しても、親のすねをかじるから大丈夫。宴にはそういう人間が多く集まっていた。
悪酔いが加速するなかで、誰かが、「デリヘルを呼んだぞ」と叫んだ。続いて、歓声が上がった。
宴のホストが叫ぶ。「俺の部屋に汚い女なんか呼ぶなよ」と。続いて、笑い声が上がる。女たちの笑い声が際立っていた。
「風営法改正の弊害で生まれた、かわいそうな女の子たち」女の一人が嘲るようにして言った。
四十分後、部屋のチャイムが鳴らされた。部屋に通されたのはアケミだった。
酔った十数人の学生から好奇と嘲りの入り混じった視線を向けられ、アケミは委縮した。
「とんでもないブスじゃん」誰かが言って、私とアケミを除く誰もが笑った。
「こいつ、あれじゃん。おい、鈴木」学友が私に向かって手招きをしながら言った。「二年くらい前に俺ん家に呼んだデリヘルだよ、こいつ」
アケミは私を見つけ、短く微笑んだ。そうしてまた、能面に戻った。
「駄目だよ、こんな仕事をいつまでも続けてちゃ。早くちゃんとした仕事に就きなさい」学友が言った。
「どなたを射精させればよろしいんでしょうか」アケミが言った。無感情な声は運よく酔っ払いたちの逆鱗に触れず、笑いを招いた。
「俺で頼むよ」そう言った大柄な学友は、ズボンとパンツを下ろし、醜く膨れ上がった男性器を露出した。場の盛り上がりが最高潮に達した。
アケミは躊躇なく醜い男性器に近付いた。
「馬鹿、冗談だよ」身を逸らしながら男性器を振るわせて、言う。「触るな。病気になる」
「じゃあ、どなたを射精させればよろしいんでしょうか」今度の無機質な声は、酔っ払いたちの笑いを消し去り、空気を凍てつかせた。
「いや、もう帰っていいよ」眼鏡をかけた学友が言った。
「チェンジですか」
「いや、もう終わりで」
「そうすると、これでお金を払ってもらうことになるんですけれど」
誰かが一万円札を二枚取り出し、アケミに手渡した。アケミの手を汚物のように避けながら、札の隅を持って。
アケミは恐怖をひた隠し、足早に部屋を立ち去ろうとした。
「白けちまったじゃねえかよ、ブス」アケミの背中に向かって、小柄な学友が言った。
アケミが部屋から去った。
「いつまでちんこ出してんだよ」大柄な学友に向かって、眼鏡をかけた学友が言った。
「あなたを射精させればよろしいんでしょうか」学友が言った。それが陽気の呼び水となり、部屋は再び喧騒に満ちた。
大学に入学して以来、私はこの場にいる人々と交際してきた。傍から見て、私と彼等は友人関係にあった。しかし、私は彼等の名前すら覚えていなかった。
「亜美ちゃんがね、鈴木くんと二人で会いたいって言うんだけど、どうする?」森田が文庫本を読みながら、言った。
私の部屋は森田が置き去りにしてきた小説の数々でいよいよ埋もれつつあった。
寝っ転がるスペースがないので、私は胡坐をかき、腿に頬杖をついて、心身を休めていた。森田は椅子に座り、長い脚を窮屈そうに縮めていた。
「亜美って、誰ですか?」私は言った。
「先週の金曜日にクラブで会った子だよ。覚えてないの? 鈴木くん、一緒に踊ってたじゃん」
私はぼんやりと、亜美という女を思い出した。
「会えないと伝えてください」
「どうして? 亜美ちゃん、美人じゃん」
「お前みたいな阿婆擦れと会ってる時間なんてないと伝えてください」
「ひどいね」森田は笑った。「まいったな。二人きりの場をセッティングしてあげるって安請け合いしちゃったんだよね、俺。亜美ちゃん、反故にされた約束とか根に持ちそうだなあ」
「自業自得でしょう」
鈴虫が鳴いた。その音は夜の静寂に乗って、清潔なまま空気に染み渡った。
数分の間、私と森田は沈黙した。
森田が沈黙を破る。「鈴木くん、お願いがあるんだけど」
「亜美っていう女とは会いませんよ」
「それはもういいんだ」森田は文庫本のページをめくった。「今度の土曜日のお昼ごろ、俺の部屋に来てほしい。正確に言うと、鈴木くん一人で俺の部屋に居てほしい」
「理由は?」
「両親が上京して、俺の部屋に来る。実家に帰って来いと、俺を説得するために」
「俺があなたの両親を出迎えて、どうしろと?」
「俺が全うにやっていると言って、安心させてやってほしい。大学を卒業するため学業に励み、就活も順調だと言ってやってほしい」
「大嘘だ」
「頼むよ。このままじゃ田舎に連れ戻されるか、仕送りを打ち切られるかしてしまう。俺はまだ東京に居たいんだ」
「親の金なんて当てにしないで、東京に住み続ければいいんですよ」
「どうやって」
「どうやって?」私は呆れた声を漏らし、森田を凝視した。
森田の美しく健康な肉体に愚かしいほど弱い魂が透けて見えた。
森田から目を逸らしながら、「俺の嘘なんてすぐにばれますよ」と私は言った。
「少しでも時間を稼げればいいんだ」
「僅かな延命で事態を改善させることができるんですか?」
森田は文庫本を閉じて、天井を仰ぎ、「無理だろうね」とささやいた。
「終わりを先延ばしにするだけの生き方は破滅に向かうだけだ」私は言った。
「その通りだ」森田がうつむいた。「その通りだと分かっている上で、鈴木くんにお願いしている」
私の携帯電話が鳴った。アケミからの着信だった。私はそれを無視した。
「電話、出なくていいの?」
私はその声も無視した。
携帯電話が鳴り止む。
「土曜日の何時に伺えばいいんですか」私は言った。
森田は空しい笑みを浮かべ、「すまない」と言った。
森田が住むアパートの部屋には何度か入ったことがある。小綺麗で広さのあるリビングとダイニング。調理に適したスペースを確保されたキッチン。洗面台の横に洗濯機が置かれ、トイレももちらん共同なんかじゃない。バスルームも完備。ごくありふれた人間の住まいで、森田は生活していた。
私を出迎えるのと同時に、森田は自分の部屋の合鍵を私に手渡し、部屋を出た。
森田の部屋には大きな本棚があり、そこには小説ばかりが綺麗に並べられていた。私の部屋に置き去りにしてある小説と同じ本が幾つか見受けられた。
複数の香水のにおいが混じり合い、それが染みついた部屋は息苦しかった。
私は窓を開け、部屋に風を入れた。アパートの窓側にある小さな雑木林が風よけになっていたものの、この日の強風を和らげることはできず、部屋にある軽い置物などが幾つも倒れ、私はすぐに窓を閉めた。
男の一人暮らしには不釣り合いなダイニングテーブルと、三脚のダイニングチェア。その内の一つに私は腰掛けた。
私の携帯電話が鳴った。アケミからの着信に私は応じた。今夜会いたいとアケミは言った。月曜日の夜に行けたら行くと私は言った。そうして、電話を切った。
部屋のチャイムが鳴る。私はインターホンで応対してから森田の両親を部屋に招き入れた。
私は自分が森田の友人であることを森田の両親に伝え、ダイニングチェアに座るよう二人を促し、二人は困惑しながらもそれに従った。
私は、森田は急用で明後日まで帰れなくなった、と、森田の両親に伝えた。はるばる上京した両親に門前払い同然の仕打ちをするのが忍びなかった森田が、両親を出迎えてくれるよう私に頼んだのだとも、伝えた。
「あの子ったら、お友達にご迷惑を掛けなくったって、用ができたなら用ができたと私たちに連絡をくれればよかったのに」森田の母親が言った。
「用事が出来てからすぐに森田さんはご実家へ電話を掛けたらしいんですが、もう御二人とも家を出てしまっていたそうで」ダイニングチェアに座りながら、私は言った。
「私たちもそろそろ携帯電話を持たなきゃ駄目みたいね」森田の母親は笑い、それからすぐに表情を整えた。「ありがとうね。あの子のためにこんなことを引き受けてくれて」
「部屋にいてくれと頼まれて、そうしただけです」
森田の母親が頭を下げたので、私も釣られて頭を下げた。
「あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」森田の父親が言った。
「鈴木です」
森田の父親が、「鈴木さんですか」と言って、会話は絶えた。
向き合って座るなかで、気まずさはなく、ただ、気疲れがあった。
「鈴木さん、私たちはこれで帰ります。今日は本当に、すまなかったね」森田の父親が席を立った。
「ちょっと待って、お父さん。少しだけ、掃除していきたいの」
「お母さん、掃除なんて今じゃなくてもいいだろう」
「そうそう来てやれないんだから、やれるときにやってやりたいの」
「部屋中、綺麗なもんじゃないか。掃除なんて必要ないよ」
「掃除しづらいところには埃が溜まってる。ほら、あの本棚の後ろとか、ひどいじゃない」
「私たちが帰らなくちゃ、鈴木さんが解放されないだろう」
「自分は構いませんよ」私は口を挟んだ。「お気が済むようになさってください」
森田の母親は礼を言い、ダイニングの隅に置いてあった掃除用具を使って掃除を始めた。
森田の父親も私に対して礼を言った。それから、椅子に座り直し、「鈴木さんは息子と同じ大学に通ってらっしゃるんですか?」と言った。
「はい。大学の後輩です」
そうしてまた、会話が途切れる。
私は森田の母親に目を向けた。
「こんなに本が一杯。子供の頃は読めと言われても本なんて全く読まなかったのに」本棚の埃を払いながら、森田の母親は言った。
これ以上に尊い仕事はないのだと言わんばかりに喜びを溢れさせて、息子の部屋を掃除する母親。その姿を、私は新しい事物を発見した幼子の目で見詰めた。
「息子は、全うにやっているんでしょうか?」不意に、森田の父親が言った。
「全うとは、どういう意味でしょう?」私は言った。
「卒業や就職のために努力しているかどうかという意味です」
森田の母親が掃除機を起動して、騒音が部屋に響き渡った。
「自分の知る限りでは、森田さんは、努力しています」
私の声を聞いて、森田の父親はうっすらと微笑んだ。
やがて、掃除機からの騒音が止んだ。
「じゃあ、帰ろうか」森田の父親が森田の母親に向かって言った。
「待って。持ってきた食べ物、悪くなっちゃうやつだけ冷蔵庫に入れちゃうから」
森田の母親は冷蔵庫を開け、「お酒と栄養ドリングしか入ってないじゃない」と言った。そうして、持参した大きなリュックサックから、きんぴらごぼうやら肉じゃがやらが詰まったパックを何個も取り出し、それらを全て冷蔵庫に押し込んだ。
「子離れできない母親なんですよ。張り切ってあんなに作ってくるんだから」私に向かって、森田の父親が愉快そうに言った。
「お父さんだって人のことは言えないでしょう。そんなに一杯の野菜を苦労して持ってくるんだから」森田の父親の足下に置いてある大きな紙袋を指差して、森田の母親は言った。
森田の父親が大きな紙袋を持ち上げて、言う。「鈴木さん。この野菜、少しもらってくれませんか? 今日のお礼と言ってはなんですが。北海道のとてもおいしい野菜なんですよ」
私は遠慮したが、押し切られ、野菜を受け取ることになった。
森田の父親は紙袋から野菜を取り出し、それらを大きなビニール袋に詰め込んだ。
秋野菜のつつましい色彩に満ちたビニール袋を受け取って、私は礼を言い、森田の両親を玄関まで見送った。
森田の父親が靴を履き、玄関ドアのノブをつかんだ。森田の母親は、玄関に散らばった靴を簡単に整え、それから自分の靴を履き、立ち上がり、振り返り、真っすぐな目で私を見た。
「鈴木さん。息子は人付き合いの苦手な子ですけれど、これからも仲良くしてやってくださいね」
森田の母親が言い、森田の父親が頭を下げた。その言動はとても優しかった。
「鈴木さん」森田の父親が言う。「私たちはこれからすぐに東京を立つから、もう帰ってきても大丈夫だぞ、と、息子に電話してやってください」
玄関ドアが開く。強風が部屋に入り込む。森田の両親が強風にさらされる場所に出て、玄関ドアが閉まった。
日曜日の午前一時に、森田が私の部屋を訪れた。
流し台に置かれた秋野菜の詰まったビニール袋を指差して、「インスタント食品ばかり食べている人が、生野菜とはね」と、森田は言った。上擦ったその声で森田が酒に酔っていることが知れた。
「あなたの両親から頂いたんですよ」私は言った。
「今日は、いや、今日じゃなくて、もう昨日だ。昨日はどうもありがとう、鈴木くん」森田は本の山をなぎ倒し、散乱した本の上に身を投げた。「バイトはお休みかい?」
「あなたに頼まれたことが何時に終わるか分からなかったので、休みを入れてもらってたんですよ」
「本当に、すまなかった」森田は仰向けになり、言った。「どうだった? 俺の親」
「健康そうでしたよ」
「そうじゃなくて」森田は笑った。「良い親に見えたか、悪い親に見えたか、そういう意味での、どうだった、だよ」
「子供のために骨を折る、普通の親でしたよ」意図せずに、寂しい声が出た。
「そうだね。人並みに愛してくれる、普通の親だ。そんな親からどうして俺みたいなのが生まれてきたんだろう、って、思ってる? 鈴木くん」
「思ってませんよ」
「俺のことなんて、どうとも思ってないか」
「あなたに限らず、人のことはどうとも思わないんですよ、俺は」
「じゃあ、自分のことはどう思ってるんだい、鈴木くんは」
「酔って絡まないでくださいよ」
「何度も一緒に飲んでるんだから知ってるでしょ。俺は酔って絡んだりしない」森田は上体を起こし、椅子に座る私を仰ぎ見た。「俺の純粋な感情が、君に絡んでいる」
「俺に絡むより、自分の人生に絡んでくださいよ、純粋な感情を以て」
「純粋な感情を以て、俺は怠惰の果てに朽ち果てるんだ。俺は充分なくらい自分の人生に絡みついている。だから、俺の話はいいんだ。君の話をしよう」
「俺について話すことなんて何もない」
「自らに苦役を強いるような君の生き方が、俺には分からない。過剰な労働と就活の合間にこんな粗末な部屋へ寝るためだけに帰ってくる君の生き方が、俺には分からない。そんな自らの努力を無価値と断じている君が、俺には分からない」
「あなたが分からないのは俺のことじゃない。あなたが分からないのは金のことだ」
「金のことはよく分かっているよ。普通の親が、馬鹿な異性が、俺のような人間を肥やすためだけに浪費するものが、金だ。君のような血のにじむ思いをしている人間に施されないものが、金だ」
「やめましょう。浅いところで議論なんかしたくない」
「これは議論じゃない。さっきも言ったけど、これは俺の純粋な感情だ」
「独り善がりも甚だしい」
「君のこの生活も独り善がりなんじゃないかい」
真下の部屋の狂人が呻き始める。
「黙れ!」森田が叫んだ。
森田の声を意に介さず、狂人は呻き続けた。
「殴ってでも黙らせてやる」そう言って、森田は立ち上がった。
「放っておけばいいんですよ」
私の声を無視して、森田は玄関まで千鳥足で歩いていった。
「放っておいてやれ」私は怒鳴った。
森田は玄関ドアのノブをつかみながら、振り返り、母親によく似た目で真っすぐ私を見た。
「君の荒げた声、初めて聞いたよ」森田が言った。「やっぱり優しいんだよね、鈴木くんは。俺が出会ってきた誰よりも、優しい」
「見当違いなことを言わないでください。俺は優しくない」私は森田に向かって、森田の部屋の合鍵を投げた。
森田は合鍵をキャッチして、すぐにそれを私に向かって投げ返した。
「俺の部屋、君の好きなときに使ってよ。こんなところよりもずっと駅に近いし、こんなところよりもずっと綺麗だ。俺のことは幾らでも利用してくれて構わない」
森田が投げ返した合鍵を私は拾い、それをまた森田に向かって投げた。合鍵は森田の足下に落ちた。
森田は合鍵を拾い、それをポケットに仕舞って、微笑んだ。そうして、玄関ドアを開けた。
「どこかで飲み直そうと思うんだけど、鈴木くん、付き合ってくれるかい?」
「遠慮しときます」
森田は、「そう」と呟き、部屋を出ていった。
十二月の半ば、バイトが終わり帰宅した深夜。夜な夜な呻く狂人の部屋の前に佇む大家を、私は見た。
私に気付いた大家が、「やあ、遅くまでご苦労さん」と言った。
私は小さく頭を下げ、二階へ上がろうとした。
「二階の、鈴木さんだよね。ちょっと、こっちに来てくれるかな」大家が私を呼び止めた。
「何でしょうか」
大家は私の問いに手招きを返した。私は小さなため息をつき、大家のそばへ寄った。
「内山さん、もう十日くらい、ずっと大人しいんだよね」夜な夜な呻く狂人の部屋を指差して、大家が言った。「内山さん、死んでたりしないよね」
「部屋に入って確認すればいいんじゃないですか」私は言った。
「それはまずいよ。プライバシーがあるんだから」私の部屋の合鍵を森田に渡した大家が、言った。「鈴木さん、この十日の間に内山さんの姿を見かけたりしてないかい?」
「見ていません」
大家が腕を組んだ。いたずらに時間を浪費するだけの仕草だった。
夜な夜な呻く狂人の、内山の部屋のドアノブを、私はつかんでみた。それを大家は制止しなかった。
ドアノブが回った。
「鍵が掛かってないですね」私は言った。「内山さん、開けますよ」
返事はなかった。私はドアをゆっくりと開けた。
内山の部屋は蛍光灯の黄ばんだ光に照らされていた。六畳一間の真ん中に、内山がうつぶせで倒れていた。
悪臭が鼻を突いた。それが内山の体から発せられている臭いなのか、長い年月の間に部屋に染みついた臭いなのか、判断がつかなかった。
「内山さん」
私は呼び掛けた。
「内山さん!」
もう一度、今度は大きな声で呼び掛ける。
内山はぴくりとも動かなかった。
大家が内山に近付いた。大家は内山を仰向けにした。大家のか細い腕でもすんなりと動かせるほどに、内山の体はやせ細っていた。大家は内山の口元に耳を当て、内山の脈を計り、そうして、内山に向かって合掌した。
私は携帯電話を使って救急車を呼んだ。それから、私は内山の部屋を凝視した。冷蔵庫と、ごみが詰まった複数のごみ袋と、数着の汚れた衣服があるだけの部屋。ずっと閉めっぱなしにされていた厚手のカーテンさえもがぼろぼろな、貧しさの集約された部屋。
「餓死ですかね」大家が言った。「餓死ならあんまりにもかわいそうだ。苦しい死に方だと聞くから。まだ若いのに、かわいそうだ」
大家が涙を流した。その老人の濁った涙が世界で唯一の美しいものに思われて、私は途方に暮れ、立ち尽くした。
やがて、救急車のサイレンが聞こえた。
一月二日の夜明け前に帰宅すると、揚げ餅の詰まったパックが一つと、女が好んで使うような柄の便箋が二枚、椅子に乗っかっていた。
私は二枚の便箋を手に取り、一枚目の便箋に目を通した。
明けましておめでとう、鈴木くん。森田です。
二か月ぶりくらいに来たけど、部屋の様子が全然変わっ
てなくて、ちょっとだけホッとしました。
僕が置いていった小説が全て捨てられてしまっているの
ではないかと思っていたから。
部屋で君を待っている間に、揚げ餅のおばあちゃんが今
年もやってきて、揚げ餅を置いていってくれました。
去年のよりも少しだけ揚げ過ぎているけれど、充分に美
味しいですよ。
揚げ餅のおばあちゃんとご近所回りをしたついでに、こ
の便箋を買ってきました。
君に会うのが急に怖くなったからです。それでも、君に
僕の声を聞いてほしかったからです。
電話かメールで済ませばよかったのかもしれませんが、
それではきっと、僕は本心を語れないと思いました。
だから、この手紙があります。
鈴木くん、僕はもう、大学生ではありません。就職した
わけではありません。
僕は、親から後一年仕送りをしてもらう約束を取り付け
た東京に住まう唯の遊び人です。
僕の実家は貧しい家庭ではありませんが、特別に裕福な
家庭というわけでもありません。
仕送りは僕の親の生活を確実に圧迫します。過去八年間
に渡って学費などを負担させてきたのだから尚更です。
それでも、僕は後一年の仕送りをも溝に捨てる。親のこ
とを思えば申し訳なくて仕方ない、にも拘わらず。
私は一枚目の便箋を椅子の上に戻し、二枚目の便箋に目を通した。
僕には労働というものが分かりません。
年収が一千万円を超える人も、年収が二百万円に届かな
い人も、等しく哀れに思えてならないのです。
スポットライトを一身に浴びて人々の羨望の的になる人
も、誰にも見向きもされず薄暗い場所で労働に勤しむ人
も、等しく哀れで、僕には価値が見いだせないのです。
生活に駆り立てられることも、社会に駆り立てられるこ
とも、人間に駆り立てられることも、僕には響かないの
です。
僕は人間を愛していながらも、人間を軽視しているのだ
と思います。そうして、自分自身を最も軽視しているの
だと思います。
僕は未来を思い描いたことがありません。就職や結婚、
何一つ思い描いたことがありません。
進学でさえ、目的のない勉強の果てに身の丈に合わない
大学へ受かってしまっただけのことです。
当たり前のことですけれど、未来はいつの日か必ず現在
になります。思い描いてこなかった未来が、現在の僕な
のです。
僕は自分が何者なのかさえ知りません。バイセクシュア
ルなのか、それとも、女好きの振りをしているゲイなの
か、そんなことさえ、自分の性さえ知りません。何も知
らずに、二十六歳まで生きてきてしまいました。
現在、僕にあるのは孤独だけです。どんなコミュニティ
にも属していないという孤独だけです。
僕が鈴木くんに惹かれるのは孤独という共通点があるか
らなのか、それさえ、僕は分からずにいます。
私は二枚目の便箋も椅子の上に戻した。
「あなたのは孤独ではなく、甘えだ」そう吐き捨てた自分の心に、孤独がはっきりと浮かび上がった。
私が望めば自分の命さえ投げ出しかねない女、アケミ。彼女の奉仕はいつだって私の心を孤独にした。浮き彫りにならない美しさを持った女、アケミ。彼女の肉体はいつだって私の心を萎えさせた。金で男をつなぎとめようとする女、アケミ。彼女の金はいつだって私の心を切り裂いた。金のために体を売り、汚れた女、アケミ。彼女の涙はいつだって私の心を締め付けた。
無償の愛を体現できるほどに、アケミは強い女ではなかった。私の手を握りながらアケミが「爽太」とささやいたとき、アケミが私の愛を求めているのだと知れた。
私は、アケミを愛していなかった。愛するようになることもないと分かっていた。
アケミから離れよう、そう思い至っても、アケミの純粋さが私を離してくれなかった。
梅雨の湿り気がリクルートスーツの着心地を一層と不快なものにする。満員電車の中で目が合ったリクルートスーツに身を包んだ若者に仲間意識が芽生えることはなく、骸を一瞥するような視線を重ねるだけで終わる。思いやりなど欠片も存在しない面接が積み重なり、疲弊の山が出来上がる。その山の頂上で、私は足掻き続けた。
携帯電話が鳴った。森田からの着信だった。私は通話に応じた。
「久しぶり。どう、元気?」高揚が露な、森田の声だった。
「元気です」
「就活、どう? 内定、一つくらい取れた?」
「取れてません」
「今日、これから会うことって出来るかな?」
「無理です」
「いつだったら時間が取れる?」
「当分の間は時間なんてありません」
「切実なお願いがあるんだ、鈴木くんに」
「何ですか」
「女の子を紹介してほしい」
「女には不便してないでしょう」
「お金を引き出しやすい女の子が必要なんだ。お金が必要なんだ」
「下種な頼みですね」
「助けてほしい」森田の声が泣き声に変わった。
「何のために金が必要なんですか?」
森田は泣くばかりだった。
「今度の火曜日の二十時くらいになら時間を作れます」私は言った。言ってから、後悔した。後悔しながらも、言葉が止まらなかった。「一度、会いましょう」
会話にならない森田へ一方的に待ち合わせ場所を告げ、私は電話を切った。
チェーン店の居酒屋で、子供だましのカクテルを飲みながら森田を待った。お通しで出てきた煮物と和え物は冷たくて、不味さに拍車をかけていた。ほっけ焼きを一つ注文して、その温かさに救いを求めたが、それも不味かった。口の寂しさを紛らわすために酒が進んだ。
森田は約束の時間から三十分ほど遅れて居酒屋にやってきた。森田はこの暑く湿った夜に長袖のシャツを着用していた。
「ごめんね、本当にごめん」不自然に陽気な声で、森田は言った。
森田は私の向かいの席に座った。それから店員を呼び、カクテルを注文した。
「最後に会ったのって、去年の秋ごろだよね」森田が言った。「また会えてよかった」
会わなかった間に森田の体はやせ衰えていた。血色の良かった肌も青みがかり、髪の毛のつやも失われていた。全体的に不健康な印象でありながら、瞳だけが火花を散らすように輝いていて、不気味だった。それでも、森田の美貌は失われていなかった。地面すれすれで燃えるろうそくの火みたいな美貌だった。
「ほっけ焼き、大好き」
森田は食べかけのほっけ焼きに箸を伸ばした。
「もう冷めていて、おいしくないですよ」
私の声を無視して、森田はほっけ焼きを食した。森田は黙々と箸を進め、あっという間にほっけを骨と皮だけの残骸に変えた。
「不味いね」
店員が私たちのテーブルにカクテルを置き、空いた皿を下げた。
「鈴木くん、ここの支払いは俺に任せてね」森田はカクテルに口をつけた。
「金に困ってるんじゃないんですか?」
「ちょっとした飲食代くらいなら問題はないんだ。必要なときに、纏まったお金を用意できないことが問題なんだ」
「あなたは本当に金というものを分かっていないんですね」
「真綿ではなく、お金が人の首を絞める。それくらいのことなら分かっているよ」
唯でさえ客足がまばらな店内で、どの客も陽気の欠片も持ち合わせていないから、森田の声は殊更に大きく聞こえた。大きな駅の近くに位置する居酒屋でありながらも寂しい場所だった。
「纏まった金を用意できる女が欲しい。それで俺を頼る。二重に愚かですよ」
「俺なんかが纏まったお金を手に入れるには、女の子の慈悲にすがるしかないんだ。女の子を紹介してくれ、なんて頼める人は君以外にいない。友達みたいな人や恋人みたいな人はそれなりにいるけど、自分の弱みを見せて、助けて、と言えるのは、君しかいない。愚かしい自分の言い訳なんてしないよ。俺は君に縋る。何一つ、君に借りを返せないと分かっていても、君に縋る。助けてほしい。唯、助けてほしい」
森田の陽気さが早くも消えた。
「何のために金が必要なんですか?」
私の声を受けて、森田は黙り込んだ。
私は酒を追加で注文した。
追加の酒が運ばれてきて、私はそれを飲み干した。
「何のためにお金が必要か、それは言えない」森田が口を開いた。
「必要なときとやらに、どれくらいの額を用意できればいいんですか?」
「分からない。時と場合によるから」
「むちゃくちゃだ」
私が言って、森田は微笑んだ。曇天に包まれて窒息しそうになっている太陽みたいな微笑みだった。
私はまた酒を注文した。すぐに注文した酒が運ばれてくる。
「金づるにした女に、あなたは何かを与えてやれますか?」
私は自分の言葉で自分の心に鞭を打った。鞭を打たれた部分に広がった蚯蚓腫れ、それが次第に形を作り、アケミの顔に変わった。
「俺は、女の子に」森田はそこで言葉を切って、一分ほど目を閉じた。目を開けてから、言葉を続ける。「お金と愛、その二つ以外のものは全て与える。今までも、そうしてきた」
「愛を与えられないのは、なぜです?」
「俺が女の子を愛することはない」森田は涙を流した。「カポーティの、ティファニーで朝食を。ホリーが言っていた。セックスをして、金を搾り取っておいて、それでいて相手のことを好きにもならないなんて、少なくとも好きだと思おうともしないなんて、道にはずれた話だ、って・・・・・・俺は、最低だ」
私の酔いは醒めた。
「もしも中学生くらいの頃にカポーティの本を読んでいたら、俺は今、きっと、こんなふうになっていない。カポーティが初恋の人になっていて、俺は今、きっと、こんなんじゃない」
森田はテーブルに突っ伏して、めそめそと泣いた。
私は携帯電話を取り出し、アケミに電話を掛けた。アケミが通話に応じる。私は自分が今いる場所をアケミに告げた。そうして、アケミも来れるかと尋ねた。アケミは、すぐに行くね、と答えた。
一時間ほどでアケミは居酒屋にやってきた。その頃にはもう、森田は泣くのをやめて不自然な陽気さを取り戻していた。
私はアケミに対して、森田を友人だと言って紹介した。私は森田に対して、私とアケミの関係を説明しなかった。
「鈴木くんの友達を紹介してもらうのって、初めて」私の隣の席に座りながら、アケミが言った。
「森田です。よろしく」
森田がアケミに握手を求め、アケミはそれに応じた。
アケミが自分の本名を名乗った。それから、「よろしく」と言った。
一時間くらい、私たちは三人で飲んだ。アケミが心配するくらいのペースで私は酒を飲んだが、醒めた酔いが再び戻ることはなかった。森田は酒を飲むよりも言葉を発するために多く口を動かした。森田のくだらない話に、アケミは嫌な顔を全く見せず、付き合った。
「森田さんはどうやって鈴木くんと知り合ったんですか?」アケミが尋ねた。
「これでも大学の先輩なんですよ、鈴木くんの」
「高学歴だ」アケミが驚いて見せた。
「新入生歓迎のコンパで、調子に乗っている学生たちの輪の中で、一人、冷めている新入生がいた。それが鈴木くんだった。未成年の飲酒を気にしない人間ばかりが集まっているなかで、明らかに酒を飲んでいない鈴木くんに興味を抱いて、俺は離れた場所から鈴木くんを観察していた。そのうちに、大学の三年生だか四年生だかが、新入生の女性の前で男性器を露にした。一線を越えた下劣な行為だったにもかかわらず、それを見たコンパの参加者は全員、笑っていた。男性器を見せ付けられた新入生の女性さえもが笑っていた。そんな狂った場で、鈴木くんだけが笑っていなかった。鈴木くんの顔には何の感情も見つけられなかった。そんな鈴木くんを、俺は魅力的に感じた。そうして、俺は鈴木くんに声を掛けた。それが俺たちの出会い」
「なんか、ちょっとだけ、私と鈴木くんの出会いに似てます」カクテルのオレンジ色に染まったグラスを傾けながら、アケミは言った。「私と鈴木くんが初めて会った場所は、鈴木くんの友達の部屋でした。鈴木くんを含む三人の男の人がいるその部屋で、鈴木くん以外の二人が私をからかって、でも、鈴木くんは私を一言も悪く言わなかった。私、それが本当に嬉しくって、素敵だなって思って、別れるときにこっそり私の連絡先を鈴木くんに渡した。次の日の夜に鈴木くんから電話をもらったとき、泣いちゃったくらい、嬉しかったなあ」
「付き合ってるんですか? 鈴木くんと」
「森田さんと付き合えばいいと思って呼んだんですよ、彼女のことは」アケミの返答を遮るようにして、私は言った。
アケミの表情が失われる瞬間を、私は横目で見た。
「酔っぱらってるの?」震えた声で、アケミが言った。
「ほとんど、素面だよ」私は言った。「俺はこれで帰るから、二人だけで時間を過ごしてみてください」
私は一万円札を一枚テーブルの上に置いて、席を立った。
森田もアケミも、私を呼び止めたりしなかった。
私は店を出た。
夜空を黒塗りの天井に変えてしまうくらい明るい繁華街の夜を、私は当てもなく歩いた。寝に帰るだけの場所には帰りたくなかった。時間をつぶせる場所ならいくらでもある東京だが、心を安らかにしてくれる場所は皆無だった。
携帯電話の着信メロディが鳴った。ショパンの、別れの曲。美しい名曲は稚拙な機械音によって汚されていた。私は着信を無視した。別れの曲が延々と流れた。
歩く、歩く、歩く。
擦れ違った老婆は目の焦点が合っていなかった。警察官に声を掛けられている少年は右目が大きな痣で隠れていた。頭の悪そうな女が頭の悪そうな男に寄りかかっていた。
別れの曲が、聞こえなくなった。そうして、私は、アケミによく似た金田の顔を思い出した。それを忘れたくて、私は近くのバーに逃げ込んだ。
十月、私の就職先が決まった。証券会社の総合職だった。
採用通知を目にした瞬間、私が抱いた感情は安堵だけだった。
学友たちが口をそろえて言った。「鈴木は就職氷河期の勝者だ」と。私は彼らに礼を言った。心中で彼らを馬鹿と罵りながら。
私は勝者でも敗者でもなかった。私は、興味を抱いてもいない職種に縋り付くことしかできない、ありふれた無力な若者だった。
アケミから数か月ぶりに電話が掛かってきた。その着信メロディが流れたのと同時に、桜紅葉の最後の一枚が空を舞った。
私は、通話に応じた。
アケミは最初から涙声だった。アケミは第一声で私の健康を案じた。私は、「元気だ」と答えた。次にアケミは私の就職が決まったかどうかを尋ねた。「決まった」とだけ私は答えた。
「森田さん、クスリをやってるかもしれない」唐突にアケミが言った。
森田の腕にある無数の注射跡について、アケミは話した。心の浮き沈みが尋常でないほどに激しい森田についても、アケミは話した。
「それを俺に聞かせて、俺にどうしろと?」
アケミの温かい声を私の冷たい声が凍てつかせた。
「森田さんは鈴木くんの友達でしょ」
「俺にできることは何もない。巻き込まないでくれ」
恐ろしい沈黙が広がった。恐怖のあまり私は電話を切る寸前までいった。
アケミが、沈黙を破った。
「私ね、今でも爽太が好き。だけど、私から連絡するのはこれで最後にする。だから、これで永遠に、さよなら」
電話が切れた。桜紅葉の最後の一枚が地に落ちた。
クリスマスの夜、くだらない人間たちと下品なバーで酒を飲んだ。その酒の席で知り合ったくだらない女とホテルに入った。そうして、くだらない女とくだらないセックスをした。
媚びた調子の女はホテルを出ると私の部屋に来たがった。私は拒否したが、女はしつこく食い下がった。私は女を罵った。女は豹変して、私に悪態をついた。汚い言葉を幾つもぶつけ合って、ようやく女は私に愛想を尽かしてくれた。
冷える夜、私は一人、自室への帰路に就いた。
部屋を出るときに施錠した自室の玄関ドアの鍵が開いていた。私はゆっくりと玄関ドアを開けた。
暗闇に包まれた六畳一間に人が座っていた。
六畳一間に座っている人に向かって、私は玄関から声を掛けたが、反応はなかった。
私は慎重に部屋へ入り、六畳一間の照明を点けた。
暗闇が消え去る。
六畳一間に座っていたのは森田だった。
照明のもと露になった森田の顔は弛緩していて、半開きの口からは涎が垂れていた。森田の両眼は私に向けられていたが、それは向けられているだけのものだった。
森田が呂律の回っていない声を発した。
私は、叫んだ。叫んで、森田の頭部を思い切り殴りつけた。
森田は倒れた。そうして、痛がりもせず、眠るように倒れ続けた。
私はもう一度、叫んだ。私は森田が着ているジャンバーの襟をつかみ、森田を玄関まで引きずっていった。森田の体は恐ろしいくらい軽かった。
私は森田を廊下に放り出した。それから、玄関ドアを閉めた。
森田はクスリをこの部屋に持ち込んでいるのではないか? そう考えた私は自室を入念に調べた。それは徒労だった。注射器やら粉末やら錠剤やら、それらしい物は何一つ見つからなかった。
私は森田が座っていたのと同じ場所に座り込み、閉じられた玄関ドアを睨み付けた。夜が明けるまでずっと睨み続けた。自分の激しい呼吸だけがいつまでも聞こえ続ける夜だった。
朝の訪れを小鳥のさえずりで知った。私は玄関ドアを開いた。森田の姿はどこにもなかった。廊下には私の部屋の合鍵が置かれていた。
元日に、老婆が私の部屋を訪れた。老婆は私に揚げ餅を手渡した。私は礼を言った。
「あのハンサムな男の子、今年はいないの?」老婆が言った。
私は、「いません」とだけ答えた。
老婆は寂しそうに、「そうなの」とだけ言った。
老婆は両手に紙袋を持ち、階段に向かって歩き出した。それは余りにも痛々しい足取りだった。老婆の両脚は二年前よりも更にむくみ、腫れ上がっていた。
私は部屋を出た。そうして、どうやって階段を降りようかと思案している老婆に声を掛けた。
「今年は自分が一緒にご近所を回りますよ」
私は老婆に向かって手を差し出した。
老婆は子供のような笑顔を作って、「ありがとう」と言った。
私は老婆の両手から紙袋を受け取り、それを片手だけで持った。それから、空いているほうの手で老婆の手を握った。
私と老婆は一緒に階段を降りた。余りにも優しく一段一段に足を乗せたから、普段の使用の際に聞こえる階段の軋みは全く聞こえなかった。
積もることのない儚い雪が止んだばかりの、曇天の東京。老婆は生き生きと身の上話を始めた。森田に話して聞かせたのと同じようにして。