第四章 猿
初めての性交の相手は、違う高校に通うバイト先の先輩だった。十八歳の彼女の性器はたるんでいて、安売りされ続けた日々を物語っていた。性交の間、彼女は嘘の喘ぎを続け、それのみを快楽としていた。恋愛感情はなかった。数回の性交だけで全て終わる関係だった。
二人目の性交の相手は同級生だった。友人たちの下品な野次馬根性に焚き付けられ、付き合い始めた女だった。彼女、平野は処女だった。平野は快楽を得る手段を持たず、小さな喘ぎをこぼし、微笑み、震えることだけで性交を終える女だった。それによって、性交が高尚なものになったりはしなかった。
青春という偶像を求めて、私は騒ぎ、遊び、笑い、動いた。動き続けていなければ、そのわざとらしさに辟易してしまうことが分かっていたから、止まらなかった。
街に繰り出し、遊ぶ。山に海にと遊びまわる。毎月、バイト代を全て使い切って、遊ぶ。友人たちと遊ぶ。平野と遊ぶ。
かじった処世術と若さの傲慢で、私は愚かな人間になり、目的のない日々で自分の可能性を一つずつ削ぎ落としていった。
私はもう、高校二年生だった。
六月、栃木県日光市への修学旅行。日光市に到着後、昼食。川治ダム、龍王峡と見学して、夕食。ビジネスホテルのような宿泊先で、八畳一間に五人が詰め込まれ、歯ぎしりやいびきを間近に聞きながら、夜を過ごす。起床後、体操。朝食後、日光東照宮へ。
午前九時、まだ馬のつながれていない厩、猿の描かれた八面の図。有名な二面目、見ざる聞かざる言わざるだけしか知らなかった私は、余計なことは見ない余計なことは聞かない余計なことは言わない、そんな処世術として三匹のさるを認識していた。
ガイドが三猿について説明する。それは私の認識とは異なるものだった。
母親のさるは子供のさるの健やかな成長を願って、こう言いつける。汚らわしいことを見てはいけない、汚らわしいことを聞いてはいけない、汚らわしいことを言ってはいけない。子供のさるは母親のさるの言いつけを守る。見ざる聞かざる言わざる。子供のさるは母親のさるの願った通りに成長し、将来に希望を抱く。大人になったさるは共に生きていく愛するさると出会い、子供を授かり、そうして、命は廻る。
「汚らわしいことを見て、汚らわしいことを聞いて、汚らわしいことを言ってしまった猿は、どうなってしまうんですか」無意識に出た、私の声だった。
同級生たちが失笑の声を漏らした。
ガイドは不快を露にして、「健やかに育たないんじゃないですか」と返した。
汚らわしいことを見て聞いて言ったさるは健やかに育たない、その答えが修学旅行が終わった後も、残った。授業を受けている間も、バイトをしている間も、友人と遊んでいる間も、平野との性交の間も、その答えだけが私の頭の中にあった。
夏休み、風邪の気怠さで自室の畳に横たわる。古い扇風機の羽が回って、不快な音が出る。汗が出なくて熱のこもった体、その奥底に、怒りを見つけた。私は汚された、という被害者意識だった。誰に、という自問に、関わった全ての人間に、と自答した。
自身の喉を裂こうかという勢いで、叫ぶ。父も母も留守だった。隣家から離れた田舎の平屋。孤独に向かって叫ぶ。
涙が流れた。熱く、粘りつく涙だった。涙にぬれた皮膚がただれる錯覚があった。
洗面所へ行き、水を顔に掛ける。鏡を見る。
鏡に映ったのは、私の知らない顔だった。それは、人間の顔ですらなかった。ニホンザルの頭蓋骨に人間の目玉をはめ込み、人間の耳と鼻と唇をくっつけた顔。目玉は濁り、何も見えていない。耳毛の束が耳の穴をふさいでいる。乾ききった唇は出血し、それが糊になって、上唇と下唇をくっつけている。
私は、柔らかく目をつぶり、激しい呼吸を繰り返した。全身が震える。
目を開き、鏡に映るのは見慣れた顔だった。
夏休みが終わり、私は学校とバイト以外の時間ほとんどを自室で過ごすようになっていた。遊びの誘いを断り続け、私は付き合いの悪い人間と評され、やがて、つまらない人間と評されるようになった。友人たちはすんなりと去った。
平野だけが私に執着した。私に関係を拒否されて、それでも、幼い母性に酔いながら的外れな善意を浴びせてくる、女。「おかしくなってるのは今だけだよ。ちょっとしたら、前の爽太に戻るよ」そればかりを言う女。
私が人付き合いを避けるようになってから、平野は、親が在宅のときを見計らって私の住まいを訪ねてくるようになった。一度だけ、私はそれに抗議した。
「だって、爽太しか家にいないときは居留守を使うじゃん」
平野が言って、私は冷笑を浮かべた。
蟻に分解された蝉の死体、残された頭の一部分が土と同化しつつある。自室の窓から見えた庭。本当の夏の終わり。
「勉強なんてしてるんだ、爽太。どうして?」平野が問いかけてきた。
大学に行くためだと適当に答えてから初めて、私は進路を意識した。
「まだ高校二年生の二学期じゃん。早いって、爽太」
平野が笑った。そういう考えの人間が当たり前にいる高校に私は通っているのだと思い知った。
手にできる全ての娯楽に関心を失っていた私は、退屈な時間を潰すためだけに勉強していた。それが私の学力を飛躍的に伸ばした。
雪の日、衣服をびしょびしょにして私の自室に上がり込んできた平野は、全裸になって毛布にくるまり、絶え間ないおしゃべりにふけった。
「こんなすごい頭の良い大学を目指しているの?」
平野の問いかけに、長兄のお古を使って勉強しているだけだと答えた。
「お兄さん、高学歴だったんだ」
二年間、浪人して諦めたと、私は答えた。
「お兄さんのリベンジだね」
平野の足指が私の背中をなでた。
「この大学に受かったら、東京に行くんだ、爽太。すごいね」
干された衣服に向かって熱風を放つ電気ストーブ、それは部屋の一角だけを暖め、私は冷えていた。
「私はきっと、この町でずっと生きていくんだろうな。地元の短大に入って、地元で就職して、地元の人と結婚して、子供を産んで。何もない町で、ありきたりな人生」にじり寄ってきた平野の息が耳に触れる。「お姉ちゃんもお姉ちゃんの友達も、みんなそういう人生をたどってる。幸せそうに見えるけど、どこか空しい」
火照った体を密着されても、熱が伝わってこなかった。
「大学を卒業したら、帰ってきてくれるかな、爽太」
「大学に行くかどうかすら、まだ決まってない」
「もしも、この大学に受かったらの話」
「帰ってこない」
「私も高校を卒業したら東京に行こうかな」
「何のために、どうやって」
「爽太に付いていって、身の回りのお世話をするっていうのはどうかな」
余りにも愚かな話を、私は冗談と受け取り、黙した。
まだ知らない場所、まだ知らない人々、それらに希望を懐く幼稚さで、勉強に没頭する。平野はいつの間にか部屋からいなくなっていて、わざと置き忘れたであろうマフラーが電気ストーブの熱風を受けて揺れていた。
「鈴木は平野のこと、どう思ってるんだ」
高校三年生の五月、同じクラスの男が問い掛けてきた。昼休みの教室で、クラスメイトたちの注目を集める大きな声だった。
私は昼食を中断し、座ったままで男を見上げた。
「平野に告白した、昨日」男が言って、クラスがざわついた。「鈴木と付き合ってるから無理だって断られたけど、最近のお前らはどう見たって付き合ってる感じじゃないだろ」
「別の場所で話そう」私は言った。
「必要ない、ここで話せ」男が言った。
私が小さく笑うと、男は私の机をこぶしで叩いた。私の弁当箱が引っ繰り返った。
「お前は平野を邪険にしてるだろ!」男が叫んだ。「いつも笑顔で話し掛けてる平野を、無視ばっかりしやがって! 東京の良い大学を受験するからって、見下してんのか!」
「なんで、俺が東京の大学を受けるなんて話になるんだ」
「平野が言ってることだ! お前の受験も、東京での生活も、自分が助けるんだって、あいつはいっつもそればっかり! 自分のことよりも人のことなんだよ、平野は! 優しいんだ!」恋で盲目になった男が言った。
「平野が俺を助けられることなんて、何一つない」私は言った。
男が私を殴った。
私は椅子に座ったままで鼻血を出した。
「平野と別れろ」男が言った。
「もう別れているとばかり思っていた」
今度はこめかみを殴られた。
ぐったりした私に焦った顔を見せて、男は教室を出ていった。
男から私に対しての暴行が教師に知れることはなく、男が相応の罰則を受けることはなかった。私が被害を訴えなかったから。教室に居た生徒たちが教室に居なかった生徒たちにだけ情報を与えたから。
生徒たちの非難の目が、殴った男ではなく、殴られた私に注がれた。不誠実な男、そんな陰口が私に付いて回った。
「殴られたって、本当なの、爽太」男が私を殴ってから三日後、平野が言った。「昨日、友達に聞いて」
学校からの帰路、舗装が荒い公道を、私が漕ぐ自転車と平野が漕ぐ自転車が並んで走る。橙色に染まり始めた太陽が二人の影を伸ばして混ぜて、奇形を作っていた。
強い向かい風に飛ばされて置き去りになった平野の問いを顧みることなく、私は自転車の速度を早めた。そうしても、平野を置き去りにはできなかった。
「ねえ、今度の日曜日、遊びにいこうよ」繕ったような陽気さで、平野が言う。「一年生のときによく行った、ビリヤードができるゲームセンター。隣町の。行こうよ」
「俺は東京の良い大学を受けるんだろ。遊んでる時間があるのか?」
「そんな他人事みたいな言い方」平野が笑った。「効率の良い勉強には息抜きが必要だって、テレビで言ってたよ」
道沿いには黄色い花が咲き乱れ、土を隠している。数年前までは畑が広がっていた場所。人の営みが消えつつある故郷。
「じゃあ、日曜日。十一時に駅前で。待ってるから」別れ際に平野が言った。
一方的な約束など無効も同然で、私が平野の意に適うことはなかった。それでも、平野は笑顔で、私に付き纏い続けるのだった。
四本の楊枝が刺さったナス、馬を模したそれに止まるハエを私は眺めていた。
網戸から入ってきた夜風に吹かれて、ハエは飛び去った。
「この家に嫁いでしまった産物だから諦めなくちゃいけませんね」母が父に向かって言った。「迎え盆が済んでからやってきて送り盆の前に帰る、あなたの御大層な親族一同と死ぬまで付き合っていくのは。あなたの妹なんて、すぐそこに住んでいるっていうのに今年も線香をあげただけでさっさと帰ってしまいましたね。まあ、お義母さんの霊に合わせる顔がないんでしょうけど。全部、私に介護を押し付けたんですからね」
父と母、長兄と次兄、私、五人が居間で食卓を囲んでいた。
ハエが祖母の遺影に止まった。祖父、祖母、曾祖父、曾祖母、並んだ四つの遺影は共通して、こわばった表情を写していた。
「兄貴の嫁も俺の嫁も線香あげただけで帰っちまったけどな」次兄が言った。
「気が利かない、居ても役に立たない嫁なんて、来てくれなくても結構なくらいですよ。孫だけ顔を見せてくれればいいんです」母が言った。
「二人目は今年の冬ごろに産まれるのか?」長兄が次兄に向かって言った。
「ああ。兄貴のとこは子供、もう作んないのか」
「三人もいればもうたくさんだよ」
長兄も次兄も地元で就職し、実家の近くに居を構えていた。
長兄がタバコを吹かし、次兄は酒を呷った。母の愚痴は止まず、父は無言だった。
暗がりに入ったハエが姿を暗ました。
「進学しようと考えてる」私は言った。
「働いてくれるものだとばかり思っていたけど」母が言った。
「馬鹿でも入れる高校からじゃろくな進学先がないだろ」次兄が言った。
あんたの母校よりは増しだ、そう言いかけて、口をつぐんだ。
「志望校は?」長兄が尋ねた。
私が答えて、蒸した部屋が冷めた。
「あんたは、なんて思いやりのない! お兄ちゃんがどういう気持ちになるのか、考えられないの!?」母が怒鳴った。
「父方の血が濃いからな、爽太は」次兄が冷笑を浮かべた。「平然とそういうことが言えるんだ」
「俺のお古を使って勉強してるのか?」
長兄の質問に私は首を縦に振って答えた。
長兄はまだ長いタバコを灰皿でにじった。そのタバコがひしゃげてから、長兄はまた口を開いた。
「難しいだろ」
「難しいね」私は言った。
長兄は笑った。「受けてみればいい。自分の能力を思い知ることは無駄じゃないだろう」
「ちょっと待ってくださいよ。お金は? 受験料が高額でしょう」三度の受験料と二年間に及んだ長兄の東京での浪人生活には仕送りを惜しまなかった母が、言った。
「バイト代が貯まってるから、それで受けられる」
「なに、爽太、あんたバイトしてたの? だったら少しは家にお金を入れてくれてたってよかったじゃないの」
「母さん、爽太にそんなこと言っても無駄」次兄が頬杖をついた。「爽太、ありえない話だけど、百歩譲ってお前が合格したらどうするわけ? 東京での生活費やら学費やら」
「奨学金を受ける」
「お前なんかに奨学金が出るのか?」次兄が言った。
「俺なんかにも奨学金が出るんだよ」
私は、ちょっと外へ出てくると断って、席を立った。
「爽太、受験に失敗したら働きなさいよ」
私の背中に母の声が刺さった。
「第二第三の志望校も受けずに?」私は振り返り、尋ねた。
「バイト代が足りるのならいいけれど」
母が言って、私の口角が意図せず上がった。
玄関で靴に足を入れた。指先が震えて靴ひもを結ぶのに手間取った。
「爽太」
父の声が聞こえた。私は目元を拭い、少し間を置いてから振り返り、父と向き合った。
「お前の受験料や学費、なんとか用意するよ」いかにも善良そうな顔を作り、父が言った。
「どこにそんなお金があるんですか?」私は尋ねた。
「父さんも病気になる前は随分と稼いでいたんだぞ。蓄えはある」
写真でしか知らない病気になる前の父の姿が鮮明に浮かんだ。傲慢の権化といえる姿。恰幅がよくなってきた長兄と次兄によく似た男。
「昔、親父は随分と兄貴たちを殴ったみたいだね」
私の声を聞いて、父の口が半開きになった。
「兄貴に聞いたんだ。数え切れないほど殴られたって」
「それはあいつらが悪餓鬼だったから。躾だ」
「お袋を殴ってたのも躾ですか? 大雪の夜に外へ締め出したりしたみたいですね」
「それは、あいつが、浮気性な女だから!」
父の飛ばした唾液が私に降りかかった。
「俺はあなたを軽蔑しています」そう言って、私は玄関のドアを開いた。「あなたたちの金なんていらない」
外に出て、玄関のドアを後ろ手で閉めて、私はもう振り返らなかった。
安物のマフラーが首を不快にした。真っ黒な朝に吐く息の白さが際立った。見慣れた駅の小さなロータリーに平野の姿があった。
「明日、試験日だもんね、爽太」駆け寄ってきた平野が言った。「今日中に東京へ立つと思って、待ってた」
始発の電車が出る十分前だった。
合格祈願と書かれたお守りを突き出し、「これ、あげる」と平野は言った。
私はそれを受け取り、口先だけの礼を言った。
「ねえ、今日、私も一緒に付いていくって言ったら、迷惑かな」
ぱんぱんに膨れた平野のトートバッグが目に付いて、私は無言を貫いた。
私に続いて切符を買い、改札を通った、平野。二人きりのプラットホームは殺風景なだけの場所だった。
揺れる電車の中で、平野は私に対して執拗にお菓子を勧め、頻繁に、「どう、受かりそう?」と尋ね、参考書に目を通す私の集中を乱し続けた。
新幹線を利用しない鉄道での移動時間は八時間以上に及んだ。
東京は晴れ渡り、人の群れの僅かな隙間を擦り抜ける乾いた風が私の前髪をかき上げた。
「みんな歩くの早いね」平野の左手が私の右のこぶしを握った。「明日、試験が終わったら、東京観光しようよ、爽太」
全国チェーンの飲食店に入り、ドリンクバーだけで時間を過ごした。平野はしきりにメニューを開き、すぐに閉じて、「明日、いっぱい買い物するかもしれないから節約しなくちゃ」と言ってはしゃいだ。
テーブルの上に開いた教材がこぼれたコーヒーで茶色に染まった。その染みが乾ききるころに私と平野は店を出た。
人工の光に満ちた夜を歩く。
「晩御飯、さっきのファミレスで済ませてくればよかったね」平野が言った。
「そんな無駄な金はない」私は言った。
「食事に掛かるお金は無駄じゃないでしょ」
「晩飯はホテルで済ます」
「ホテルのレストランなんてすっごくお金が掛かりそうじゃん」
「ホテルの部屋で食う」
「ルームサービス?」
道沿いのコンビニに入店し、おにぎり二つの会計を済ませた。
コンビニを出て少し歩いてから、平野が尋ねてきた。
「もしかして、それが晩御飯?」
私は首を縦に振った。
「そんな、もっとちゃんとしたものを食べようよ。お昼ご飯もおにぎりだけだったじゃん」
「問題ない」
「問題あるよ。ほら、あそこのお店、トンカツとかあるかも。あそこでちゃんと食べよ、ね」
「一人で食ってこいよ」
「私がトンカツなんて食べても意味ないじゃん」
「金がない」
「私が御馳走するよ」
平野が指差した店を素通りして、歩き続け、目当てのビジネスホテルに辿り着く。シングルを予約済みだった。
「ダブルじゃないんだ」チェックイン間際、フロントスタッフの面前で、平野が言った。
フロントスタッフは平野を見て、私を見て、それから私たちの年齢を尋ねた。
すんなりと、平野は私たちの実年齢を答えた。
フロントスタッフが言う。未成年者が相部屋でチェックインするには保護者の許可が必要になる、と。
「彼女は別室で泊まります」私は言った。
「別の部屋を取るなんてお金がもったいないよ」平野が言った。「親の許可って、電話とかでもいいんですか?」
歯切れ悪く、電話で問題ないとフロントスタッフは認めた。
フロントに備えられた固定電話を使い、平野は自身の自宅に電話を掛けた。短い通話のやり取りの後、平野は受話器をフロントスタッフに渡した。フロントスタッフも短い通話を行った。その通話が切れてから、私に部屋の鍵が渡された。
薄明りの部屋に置かれた孤独なシングルベッドに平野は身を投げた。弾力の弱いベッドは平野を優しく抱き留めたりはせず、金属の悲鳴を上げただけだった。
「ギリギリ二人で寝られるね」
平野のはしゃぐ声を耳にしながら、ちゃちなコーヒーテーブルに教材を開いた。椅子に腰を下ろし、その布張りが冷え切っていて、憂鬱になった。肘掛に両肘を置いて、強く息を吐く。
「ねえ、やっぱりちゃんとしたものを食べに行こうよ」
平野が言って、私はコンビニのおにぎりを頬張った。
私の後頭部に枕が投げ当てられた。
「私、一人で食べてきちゃうよ」そう言ってから、平野は部屋を出ていった。
脳髄に焼き付いた試験のための知識を網膜にも焼き付けようと参考書に食い入る。
金庫のような冷蔵庫が上げる唸りを聞く。無臭が鼻を突く矛盾があった。シャープペンを握るべき右手が遊ぶ。
私は急に弛緩して、参考書を閉じ、無機質な天井を見上げ、微笑んだ。試験に受かる自信はない、かといって、匙を投げるほど準備を怠ってきたわけでもない。私は、人生設計を有利にしてくれるであろう大学への入学を切望しつつ、東京で一人で生きていくことを切望しつつ、それらの未来を愛していなかった。私は、虚しい故郷で生きていくことを拒みつつ、その未来を憎んでいなかった。何がどうなろうとどうでもいい、それが自分の本質であると気が付いて、微笑みはいつしか大きな笑いに変わっていた。
「怖いよ、爽太。一人で笑ったりして」
そう言いながら部屋に入ってきた平野を私はベッドに押し倒した。平野のロングスカートを脱がし、タイツを脱がし、パンティーを脱がす。乾いている女性器に、醜く膨張した男性器を挿入する。避妊具も無しに。
何一つ抵抗しない平野は嘘の喘ぎを上げ続けた。果てるまで、私はその嘘を貪った。
遠慮深い寝息の数々に無遠慮ないびきが混じり始めた。日付が変わったころ、高速道路を走る夜行バスの車内。
「はるばる東京まで出てきて、観光の一つもせずに帰ることになるなんて、思わなかったよ」平野が囁いた。「試験が終わったら即帰宅って言っといてくれれば、私、爽太が試験を受けてる間に一人で観光してきたのに。丸一日、爽太と二人で観光しようって思ってたから、楽しみは明日に取っておこうって思って、ホテルでだらだら過ごしたの、本当に馬鹿みたい」
不機嫌な口ぶりが甘えた悪戯であることを、私の手の甲に添えられた平野の手の平が物語っていた。
「昨日、じゃなくて、もう一昨日だ」わざとらしく、平野が言った。「ビジネスホテルの受付の人に未成年の相部屋は許可がいるって言われたとき、私、家に電話したでしょ。そのとき電話に出たの、お父さんだったんだ。爽太と一緒の部屋に泊まるってお父さんには言いづらくて、お母さんに代わってって言おうと思ったんだけど、私も焦ってたから、爽太と一緒の部屋に泊まる、ってお父さんに言っちゃって。そしたら、お父さん、違う部屋に泊まると思ってたって言って、ちょっとだけ口ごもってから、鈴木君となら構わないって言ってくれたの」
通り過ぎては現れる延々と連なった道路照明灯が降りこぼす淡い明かりの柱を、厚いカーテンの隙間から見やり、私はその柱の数を数えていた。
「爽太、私のお父さんと会ったことがあるの、覚えてる? 二年生の五月ごろ、日曜日に私の家で。あの日、爽太が帰った後、お父さん、私に向かって言ったの。ああいうちゃらちゃらした男と付き合うのは感心しない、って」平野の声は、人形に話しかける少女の幼い声音だった。遠回りをするだけの、ままごと。「私、すごく頭にきて、それからずっとお父さんと口を利かなかった。当て付けみたいに、お父さんの前でお母さんと爽太の話ばっかりした。お母さんは爽太のこと気に入ってくれてたから、話をいっぱい聞いてくれた。爽太が勉強を始めたこと、校内の学力テストで一番を取ったこと、その一番をずっとキープしたこと、東京の名門大学を受験するために一生懸命に勉強していること。お父さん、いっつも新聞ばっかり読んでたけど、ちゃんと聞いててくれたんだね。一昨日の電話の声から爽太のことを認めてるっていう感じが伝わってきたもん」
柱の数えが曖昧になって、両目を閉じる。心身が疲弊しているにもかかわらず、眠りは遠く、私は自身のまぶたの裏を見詰め続けた。
「高校を卒業したら爽太と東京で暮らすってこと、私、まだ親に言ってないの。でも、今のお父さんなら賛成してくれるかも」平野が言った。
「言わなくていい、そんなこと」私は言った。
「何にも言わないで出ていくわけにはいかないじゃん」
「試験に受かったと決まったわけじゃない」
「受かるよ」
「受かっても、君と一緒に東京へ行ったりしない」
「なんで。言ったじゃん、爽太。一緒に東京に行くって」
「言ってない」
「言ったよ」
僅かな沈黙。
「私が一緒に東京へ行くって言ったとき、爽太、何にも言わなかったじゃん。ついてきてほしくなかったんなら、あのときにちゃんと言えばよかったじゃん。なんで、今更になって言うわけ。私、爽太についていくつもりで色んなことを犠牲にしてきたんだよ。爽太と付き合ってるのを反対する友達とぎくしゃくしたり、好きだって言ってくれた男の子を振ったり、進路だって、私、まだ何にも決まってないんだよ、爽太についていくつもりだったから。大事な高校生活を爽太のためだけに使って、それでこんな仕打ちって、酷すぎるよ」
私は両目を開き、平野の顔を見て、大きな溜め息をついた。
「なに溜め息なんてついてんの、ふざけんな!」平野が怒鳴った。
一つ後ろの座席の人間が平野の座席の背面を小突いて、平野の上半身が震えた。弱い照明の下でも、平野の目に涙がにじむのが見えた。
「ずるいよね、爽太」ささやき声に戻して、平野が言った。「人が怒りづらい場所でこういうことを切り出すなんて」
私は平野から目を逸らし、また両目を閉じた。
平野の手の平が私の手の甲から離れた。
「いつから私のことが好きじゃなくなったの?」
平野の問いに私は答えなかった。
「どうしても、私、ついていっちゃ駄目かな?」
その問いにも答えない。
「家事は私が全部やる。仕事してお金も入れるよ。爽太、お金なんてないでしょ。それでも、駄目なの?」
眠れない夜に恥辱と後悔の切っ先は研がれる。鋭利な切っ先は憎悪に染まる。眠りだけが感情を慰める唯一の救い。
「私がちっぽけな世界を抜け出すなんてこと、この先、絶対にないよ。私は普通の女の子で、流されて生きていくことしかできなくて、辿り着ける場所はどうしたって、ありきたりな幸せまで。ありきたりな幸せは、きっと、本物の幸せじゃない。幸せな振りをして生きていくしかない私を見捨てるっていうなら、呪ってやる。この、最低のくず野郎。絶対にあんたを許さない」
懇願と罵倒と脅迫を繰り返し、夜の間ずっと、平野はささやき続けた。
「あんな大学、あんたなんかが受かるわけないじゃん」
夜行バスを下車する際に発せられたそれが、平野から私への最後の声だった。
志望大学の合格通知が届いてから、私は多くの時間をバイトに充てた。卒業式にも出席せず、卒業証書はバイトの合間に高校へ立ち寄って受け取った。職員室で卒業証書を受け取り、その場にいた教師たちが私の大学合格を称賛した。感情の乏しい口先だけの称賛だった。私に何一つ教授していないことを教師たちは自覚していた。
卒業証書を受け取った翌日、私は東京へ出た。新幹線を利用した日帰りだった。現地の不動産屋に頼んでおいた最も安い物件に立ち入り、入居の契約を済ませたその足で、履歴書を送っておいた東京都内のバイト先へ面接に行き、四月からの労働契約を結んだ。それだけで帰路につく一日だった。
生まれ育った場所で過ごす時間は残り僅か。名残惜しさの欠片さえ見つけられない町。朝から夕方までのバイトが終わり、夜間のバイト先へ向かって歩く日曜日に、前方から歩いてくる家族連れは、長兄一家。
長兄の一番上の子が私を指差し、叔父さんだ、と言った。長兄が私を見やり、憎悪で顔を歪めた。街灯の下で、その顔がはっきりと見えた。
「似ているけど違う人だよ」
そう言って、長兄は子供の手を引いて、私と擦れ違い、去っていった。
長兄たちの笑い声が背中にぶつかり、私は走り出した。
東京へ立つ前日は大雨だった。日付が変わっても雨脚は弱まらなかった。
私はバイトの最終日を終え、職場の人たちへ世話になった礼を述べた。
三月分の給料は東京の住所に送ればいいんだよな、と、職場の責任者が尋ねてきて、私は、それでお願いします、と答えた。職場の責任者は、面倒くせえなあ、とぼやいた。
職場を出て、傘を差すのも億劫な体に鞭打って、帰宅する。
「今日、俺は東京へ行く。もうここには帰ってこないかもしれない」
帰宅してすぐ、暗い屋内に向かって、大きめの声で、私は言った。
母か父、どちらのものか分からないいびきが響いた。
私の大学合格を知って、「お兄ちゃんが可哀相だ」と、それだけを言った母。結局、私の大学進学に当たって一円も出さなかった父。
私は、寂しい自室で一睡もせず、夜が終わるのを待った。
やがて雨が止んだ。
父も母もまだ眠っているうちに家を出た。
満開だった桜は雨に打たれ地に落ちた。薄汚れた花びらを踏みつけながら駅に向かって歩いた。
プラットホームで始発を待つ。線路の向こう側、下りのプラットホームで、平野と若い男が、手をつないで立っていた。ハイキングにでも行くのか、二人とも身軽で爽やかな装いだった。若い男は教室で私を殴った男によく似ていた。平野は幸せそうに笑っていた。二人とも、私に気付く素振りは微塵も見せなかった。
電車に揺られ、長い距離を移動し、車窓から覗く景色に人工物が増えていっても、心はくすんだままで、逃げ場はないのだと思い知る。利子がある奨学金は借金そのもので、自分以外に頼りのない十八歳の私は、一生懸命に貯めた少しのお金が詰まったぼろぼろの財布を握りしめて、恐怖のあまり、涙の最後の一滴を零した。