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変態紳士によろしく

変態紳士によろしく 第9話 官能の息吹

 昨日の猛り狂った様相が嘘みたいに、穏やかで行儀のよい下半身だった。それは、浜辺だけを想い、果てに果てて、到達した紳士の下半身だった。どこに出しても恥ずかしくない、フォーマルな下半身。愛情を拠りどころとしたプラトニックな自慰七連発、あえて銘打つならば、レインボーシャワー、そのカタルシスが全うな社会生活を約束する礎であることを、花井は体現していた。
 暁に降った雨が、大気を湿らせている。大きく息を吸い込めば、体中の不純物が洗い流されるかのような、ナチュラルデトックス。
 朝の美しい青空を見上げて歩いていたから、小さな水たまりに足を入れてしまって、ズボンの裾が少しだけ濡れた。
 『逢いたい、浜辺さんに・・・・・・』
 銚子電鉄の踏切を渡り、君ヶ浜高等学校の校舎が視界に入ると、花井は居ても立っても居られなくなって、同じく登校中の生徒たちの合間を縫って走った。そうして辿り着いた2年D組の教室は、学び舎の体裁すら整わず、丸っ切り浜辺との愛の巣で、クラスメイトたちの談笑はスズメのさえずりに等しかった。チュンチュン、チュンチュン。朝チュンでしょうか、いいえ、イマジナリー。そんなイマジナリーに演出されて、花井を見つけた浜辺の顔は、初夜の明けたうら若い新妻そのままだった。
 「おはよう。花井くん」
 痴情を乗り越えた親愛が、その声には滲み出ていた。昨日までよりも更に強く情愛を刺激する声。
 耳から犯されて、浜辺の足下に身を投げたい衝動に駆られるも、必死にこれを抑え、花井は紳士然とした佇まいを保ちながら、「おはよう。浜辺さん」と口にした。
 視線と視線が、キスをした。お互い、心が甘酸っぱさに満たされる。満たされて、尚もその快感を貪欲に欲し、ディープは唯々、深まった。
 ディープが過ぎて、先に恥じらったのは浜辺だった。視線をそらし、顔まで背ける。そうなってさえ、花井は浜辺を視姦し続けた。
 耳裏まで赤い横顔、襟から覗くうなじ、制服に隠れた背骨のライン、むき出しの膝裏・・・・・・全てが魅力に溢れていて、花井の視線はブットレアの密に伸ばされた蝶の口吻であるかのように、甘美な視覚を貪った。
 授業が始まってさえ、花井の全ての意識は浜辺に向けられた。英語の授業に際しては、教師にギリシア神話の一節を朗読するよう求められた浜辺の流暢な発語に感心しつつ、その淡いHの発音の色香に誘惑され、花井は授業そっちのけになって、Hの発音を反芻した。数学の授業に際しては、教師に複雑な等式の証明を求められた浜辺の完璧な解答に感心しつつ、花井潤の全てイコール浜辺娃の物、という等式まで証明されてしまい、花井は授業そっちのけになって、浜辺に全てを捧げられる幸福に善がり狂った。古典の授業に際しては、教師に万葉集の和歌を一首暗唱するように求められた浜辺の美しい詠に感心しつつ、その和歌、夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ、に秘められた浜辺の思いを想察し、胸が苦しくなった花井は授業そっちのけになって、浜辺を抱きしめたい熱情を必死に抑えた。生物基礎の授業に際しては、教師にホルモンの解釈を求められた浜辺の簡潔な説明に感心しつつ、その美しいまでの知性に雄の部分を刺激され、精巣ホルモンの分泌を促進された花井は授業そっちのけになって、盛りのついた犬みたいな哀愁漂う瞳で浜辺を凝視した。
 勉学を放棄し、ひたすらに浜辺を愛で続けた時間は、正しく、光陰矢の如し、であった。幸福な時間の儚さに恐怖を懐きつつ、しかしそれを遥かに上回る歓喜を以てして、花井の瞳は活力を増し、飽くことなく、浜辺を映し続けた。もう、昼休みだった。
 浜辺は、三人のクラスメイトと一緒に教室で昼食をとる約束をしていた。四人とも、お弁当を持参だ。浜辺のお弁当箱は、清潔な無地の小風呂敷に包まれていて、その結び目を解くほっそりとした美しい指の動きは、艶めかしい蛇のくねる様に似た。花井は、全身がぞわぞわした。
 露になる、浜辺の、弁当箱。それは2段の作りで、1段にはサンドイッチ、もう1段には色とりどりのおかずが敷き詰められていた。栄養バランスがとれていて、尚且つ、一目で美味と分かる弁当。それが、四人の会話の内容から、浜辺の手作りであると知れて、花井は浜辺の多才を改めて思い知り、感嘆を漏らした。
 浜辺が、その形の良い口を以てして、手に取ったハムサンドを、食んだ。蜜をすするハチドリのような愛らしい所作だった。咀嚼ばかりか嚥下までもが上品で、浜辺は、摂食という最も原始的で動物的な行為を美術の域にまで昇華していた。そんな食事風景を鑑賞することは、ルーブル美術館を巡るに等しい。
 『ミロのヴィーナスより美しいよ、浜辺さん』
 偏愛は空腹を忘れさせる。花井は、窓際の席に根が生えたようになって、開け放たれた窓から入り込んでくる穏やかな海風に前髪を小さく揺らしながら、自らの昼食を失念していた。
 全神経が目に集中していた。そんな状態にあって無防備きわまりない右耳を、官能の息吹が襲ったのは、浜辺がキャベツのマリネに箸を伸ばした刹那。
 外耳孔を羽毛でくすぐられるが如き、快感。その強烈すぎる刺激に、花井は喘ぎ声を出し、全身が一気に弛緩して、椅子から転げ落ちた。
 快感の余波で肢体をビクンビクンと震わせながら、花井は、腹を抱えて笑っている女子を、見上げた。
 「何てことをするのさ、薫子。酷いじゃないか」
 大和男子の耳に息を吹きかけておいて、更にはその狼藉を詰られて、しかしこの大和撫子、薫子は微塵も悪びれず、笑い続けるのだった。
 「敏感なくせして隙だらけのあんたが悪いのよ、潤」
 薫子の不条理な言い草に、花井は心底から呆れ果て、首を横に振りながら椅子に座り直し、大きくため息を吐いた。
 「何、その態度?」変面みたいにして笑顔から不満顔へと素早く面相を変え、薫子は言った。「幼馴染がわざわざちょっかいを出しに来てあげたのに、そんな生意気な態度をとるなんて、あんた、何様?」
 「薫子こそ、何様なのさ?」素直に不平を示す花井だった。「来てあげた、なんて上から目線で物を言ったりしてさ。呼んでもいないのに勝手に来た薫子を丁重に持て成す義理なんて、僕にはないよ」
 「変わっちゃったわね、あんた・・・・・・」芝居がかった悲痛な表情を作って、薫子は言った。「昔は、私が一緒じゃないとトイレにも行けない可愛い子だったのに・・・・・・」
 「幼稚園の頃の話じゃないか、そんなの!」恥ずかしさの余りに、思わず大きな声が出てしまう。「ライオン組の話だよ、そんなの!」
 「そうだったっけ?」きょとんとして、言う。「あんた、中二くらいまでは一人でトイレに行けなかったんじゃなかったっけ?」
 「記憶を捏造するんじゃないよ! 名誉毀損だ!」断固とした抗議の声を上げるため、花井は勢いよく立ち上がり、声を張った。「小学校二年生の頃に一人でトイレに行けるようになったさ、僕は!」
 発声によって、興奮の熱は逃がされた。そうして取り戻した冷静を以てして、教室に居たクラスメイト十人分の視線を感じ得る。花井は、教室を見回した。呆気に取られているクラスメイト、クスクスと笑っているクラスメイト、ショタコンをこじらせているクラスメイト・・・・・・反応は十人十色、そうして、浜辺は、能面のような顔で花井を凝視していた。
 金玉が浮き上がるほどの恥ずかしさを覚え、素早く椅子に座り直し、身を縮める。そんな恥辱の責め苦を耐え忍ぶ花井に対して、薫子は再び笑い声を浴びせるのだった。
 「変わんないわね、あんた」笑いながら、言う。「ほんと、面白いわ」
 屈託が、なかった。原作の剛田武を彷彿とさせる、ガキ大将メンタル。お前は私のもの、私も私のもの。そんな純度100パーセントの観念がまかり通る、幼馴染ならではの主従関係。これを打破しうるのは、変化である。花井には自負がある。今の自分は今までとは違うという自負がある。これはファンタジーによる思い込みではない。浜辺と交際を始めた、というリアルに基づいたリアルである。だからこそ、彼は因縁を断ち切るべく、薫子を真っすぐに見詰めた。
 「出て行ってくれ」昭和のメロディを口ずさむようにして、言った。「2年B組に帰ってくれ。この、女ジャイアン」
 「女ジャイアンとは随分じゃない」
 サドにナマを注ぐ、ということわざがある。これは、火に油を注ぐ、と同義である。必然、薫子は花井の右耳に素早く口を寄せ、再び、愛撫のような息を吐きかけた。必然、花井は先のリアクションをリピートするかたちで、椅子から転げ落ちた。
 「私に生意気な口をきくなんて、百年早いのよ、潤。敏感ボディのマゾをやっつけるなんて、朝飯前なんだから」
 高飛車を絵に描いたような目で見下ろされ、悔しいけど感じちゃう、感じちゃうけど、それに甘んじてはいられない彼女持ちのプライド。屈辱が、身を焦がした。
 「油断してただけさ」椅子に座り直し、強い語気で言う。「不意打ちでなければ、薫子の息くらいでひっくり返ったりするもんか」
 「強がっちゃって。クレヨンしんちゃんの風間くんより耳が弱いくせに」
 「弱くなんてないさ」おばけなんてないさ、を上回る強がり。「僕の耳はゴルゴ13のボディ並に不感症だからね」
 お膳立てが、済んだ。薫子は唇をなめた。
 「そこまで言うんなら、潤」大きな瞳が、サディズムの色を強める。「あんた、ノーリアクションで耐えてみなさいよ。また耳に息を吹きかけてあげるから」
 罠であった。そうして、ご褒美でもあった。これに飛びつく性癖を、花井は薫子によって幼少のころから育まれてきた。俗に言う、調教済み、である。
 「いいよ。耐えてあげるよ」性的な興奮をひた隠しながら、強気を繕う。「何にも感じないんだから」
 こうして、世界一姿勢の正しい座り方が実現する。足の裏全体で床を踏み、膝は90度で、座骨は座面にそえるだけ、そこからの、背筋ピーン、からの、顎を引く。マゾの礼節は、成された。
 礼節を成した、その上で、花井は目を閉じた。セルフアイマスクだ。EMS機器を下半身に装着しながらスクワットをするが如きハードワーク。たまげるくらい、マゾ慣れている。
 「それじゃあ、いくわよ」
 薫子の、フローラルノートをベースにした甘い香りの声が、耳だけでなく、鼻までくすぐった。まだ息吹ではない、ただの声だ。そうだというのに、既に悶える寸前まで達してしまった花井。けれど、諦めない。根性のみで、最後の一線を死守する。
 『ここで悶えてしまったら、薫子をますます増長させてしまう! 薫子に散々おもちゃ扱いされてきた血塗られた歴史、その暗黒の日々に今日こそ終止符を打つんだ! 僕はおもちゃではなく血の通った人間だ、という事実を、薫子に分からせなくてはいけない! 僕は、決して、悶えないぞ! どんなスケベな刺激にもノーリアクションを貫いて、薫子をがっかりさせてやる!』
 ふんどしを、締めなおした。食いしばる。耐えているのだ、鼻への刺激に。同時に、右耳の性感帯に精神力のバリアを張って、来る刺激に備えてもいる。ガチだ。ガチで、花井はソフトな性奴隷を卒業しようとしている。
 海風が、止んだ。嵐の前の静けさに、花井の頬を一筋の汗が伝った。急流を下るように滴ったその汗がスラックスを濡らして、刹那に、薫子は末広な微風を吹いた。
 精神力のバリア、そんなものは、なかった。そんなものは架空の産物だった。花井の耳は、性感帯がむき出しの恥部でしかなく、その一糸まとわぬ裸の感受性を悪戯な風になぶられて、秒で、リアクションのダムは決壊間際の様相を呈した。
 無数の蠱惑な妖精に、耳の敏感な部分をくすぐられたり舐められたり撫でられたり突つかれたりしているような、快感。そんなセンセーションに襲われたとあっては、全身がエロスの熱を帯びるのも無理はない。
 熱を逃がしたい、故に体をよじりたい、生理現象。しかし、それは敗北を認めることに他ならない、痴態。だから、花井は椅子の座枠を強く握り、微動だにせず、熱のこもっていく体で快感地獄を、耐えた。
 五秒ほど持続して吹き続けられた薫子の息が、止む。止んで直ぐ、花井は上体を机に伏せ、ヒイヒイと喘いだ。
 「耐えたよ、薫子」喘ぎの隙間に、言葉を発する。「僕は敏感じゃないってことを証明したよ」
 満身創痍の勝利宣言、そのBGMは当然、ロッキーのテーマであった。
 「ほら、潤。上体を起こしなさい。まだ終わってない」冷酷な声が、感動に水を差した。「今度はもっと強く息を吹きかけてあげる」
 30歳以上の人類はモスキート音が聞こえない、それと類似した現象であった。つまり、女はロッキーのテーマが聞こえないのだ。それじゃあ、いくらでも非常になれるさ。現にほら、薫子が浮かべるのは氷の微笑。それを目にした花井は、瞬く間に凍り付いた。
 「一回で終わりなんて、一言も言ってないでしょ」シャロン・ストーンもびっくりの妖艶。「二回戦、いくわよ」
 「このサディストぉ!」花井はたまらず叫んだ。「生粋のサディストぉ!」
 「私はサドじゃないわよ。あんたがマゾ過ぎるだけ」
 ずばり言い当てられて、花井はぐうの音も出なかった。
 「ほら、ちゃんと座って座って」薫子は手を叩きながらはきはきと言った。「ぐずぐずしないの」
 有無を言わさぬ促しであった。反発を招いて当然のリード、しかし前述の通り、花井は調教済みである。それじゃあ抗いようがない。上体を起こし、背筋ピーンするのは、当然だった。
 「これで最後なんだからね、薫子」口だけは反抗的な花井だった。「これで僕がノーリアクションだったら、僕の勝ちなんだからね。その時は、もう二度と、僕をおもちゃにしちゃいけないんだからね」
 マゾのツンデレが覗けて、薫子はごくりと唾を飲み込んだ。大人びた容姿、女王様然とした振る舞い、そういった表面に騙されてはいけない。彼女は花井と同じ、16歳。性については、まだまだアマチュアだ。
 「いいわよ、それで」興奮を悟られないよう、努めてドライな声を出す。「絶対、耐えられないんだから」
 花井、食いしばりつつ再びのセルフアイマスク。不安と期待が程よくブレンドされた、いい精神状態だ。後はスケベな刺激を待つのみ。
 淡い唇が、耳に触れるか触れないかの距離まで、近付く。その気配だけで、花井はもう一杯一杯だ。それでいて、ショートボブに整えられた薫子の髪が頬に触れたりするものだから、花井の全身は鳥肌立ち、口はもう半開きになってしまう有様だった。
 「いくわよ、潤」
 ささやくや否や、瞬発の強風を吹く。そのエクスタシーウインドは、花井の外耳道を疾走し、鼓膜を傷付けることなくすり抜けて、蝸牛を直接、愛撫した。ただの愛撫ではない。ラブローション塗れにした蝸牛の光沢を無邪気にいじくり回す類の愛撫だ。そんな淫ら極まりない愛撫を、脳に信号を送る器官に直接ほどこされようものなら、無反応でいられる道理はなく、花井は、エッチな声を漏らし、座したまま身をくねらせて、快感に善がり狂った。
 「まるで耐えられなかったわね、潤。嫌らしく身をよじって、エッチな声まで出しちゃって、恥ずかしい」
 甘ったるい声を浴びせかけられるのは屈辱で、しかし不覚にも、ぞくぞくしてしまう。
 「負けを認めるわね、潤? 自分が銚子一の敏感ボディだってこと、認めるわね?」
 快感の余韻に思考を乱されるなかで、花井は人間の尊厳を自ら放棄し、従順な犬となって、薫子に促されるまま、「僕の負けです。僕は銚子一の敏感ボディです」と口にした。
 「それじゃあ、敏感な潤には罰ゲームね。今度はエッチな緩急をつけた息を吹きかけてあげる」
 「何ですって?」花井は、薫子の好奇に満ちた瞳を見詰めた。「何ですって?」
 「罰ゲーム、って言ったの。ほら、さっさと背筋を伸ばして。気持ちよくしてあげるから」
 サキュバスのドキドキ罰ゲーム勧誘、そんな薄い本のタイトルみたいな形容がぴったりな、薫子の魔性だった。その魔に魅入られて、花井は恥じらいながら、いそいそと姿勢を正した。
 「スケベな、いい子ね」
 褒められたのか辱められたのか、それさえ判断がつかない程に、花井の脳はとろけていた。彼は既に、耳への刺激を欲するだけの単細胞と化していた。
 例によって例のごとく、口と右耳の距離が縮まった。
 約束された恵風を、待った。忠犬さながら、待った。待って、待って、待って、十数秒が経過して、花井はとうとう焦らされることに耐えられなくなり、消え入りそうな声で、「お願いします、早くください」と懇願した。
 「息を吹きかけてほしかったらね、潤・・・・・・」切ないほどにくすぐったい囁きだった。「宣言しなさい。僕、花井潤は、福原薫子様に悪戯されるのが大好きです。そう宣言しなさい」
 従属を求められ、花井は、オリンピックレベルのスプリンターがスタートの際に発揮する反射を上回る速度で、「僕、花井潤は、福原薫子様に悪戯されるのが大好きです!」と叫んだ。
 恥辱が、快感に変換される。その享楽を、花井は無我夢中でねぶった。
 「よく言えたわね」心からの満足で、薫子は笑った。「それじゃあ、気持ちよくしてあげる」
 「お願いします! 気持ちよいのをください!」
 呂律の乱れた声が儚く散って、刹那に、薫子が大きく息を吸い込んだ。それが超弩級の一撃を放つ予備動作であることが知れて、花井は最大級の期待に胸躍らせた。
 快楽の絶頂に突き上げられることは必至、すなわち、射精必至の息吹。前日、七連発を果たしたばかりのキンタマは、既に精子満タンだ。さすがは16歳、回復が速い。だったらイケるぜ!!!
 待ち望む。息吹を、それに伴う射精を。そんな花井の耳に飛び込んできたのは、女王様の息吹ではなく、野郎の声だった。酷いマゾもののAVみたいに。
 「福原さん、花井くん」
 出し抜けに放たれたその声は、吸い込んだ息を吐かずに飲み込むという行為を薫子に働かせた。
 声の主は、君ヶ浜高等学校漫画部部長の井上だった。
 薫子が、花井から顔を離し、「何? 井上くん?」と言った。そうして、無情なお預けの憂き目にあわされた花井は、上目遣いで井上を睨みつつ、「何をするだァーッ」と詰った。
 「そりゃこっちのセリフだよ、花井くん」井上は手振りで、花井と薫子に教室を見渡すよう促した。「やり過ぎだ、君たち。教室に居る全員、ドン引き」
 井上の言う通り、教室に居る全員が、有明海の潮が引くみたいに引いていた。
 恥を知ることが破廉恥からの解脱である、by珍念ハンスケカミナンデス聖人(1173年~1273年)。そんなイケてる僧侶の金言通り、周囲の目から恥を知った花井は、痴態を演じた後ろめたさに湿る眼で、浜辺を注視した。
 浜辺は、花井から顔を背け、黙々と食事を進めていた。その様子は、他のクラスメイトが一様に馬糞を見やる目で花井を蔑んでいるのとは対照的で、際立っていた。
 花井潤は、変態である。変態紳士ですらなく、変態である。しかし、変態だって人間だ。人間である以上、他者の心境はハートで感じ取れる。けれどそれは曖昧なハートキャッチ、ニュータイプとは訳が違う不完全な理解。故に覚えたのは、かすかな不安。『勃起の治まらなくなった僕にオナニーの許可まで出してくれた浜辺さんが、今更僕の些細な痴態で気分を害することはないだろう』という確証バイアスであっさり消え去ってしまう程度の、かすかな不安。これは甘えであった。独り善がりで後ろめたさを払拭する浅ましさであった。しかしそれもまた、人間。己以外の女で善がった彼氏に対して、己の彼氏を善がらせた女に対して、浜辺が抱いた憤りに気が付きもせず、愚かに安堵した花井を責めるなら、これは人間のサガを責めるに等しい・・・・・・責められない、人間だもの。
 「ヤバい。調子に乗り過ぎて、我を忘れた」薫子は後頭部をぽりぽりと掻き、誤魔化しの笑みを浮かべた。「皆さん、見苦しいものをお見せしちゃって、大変申し訳ございませんでした。私は、これで退散します。失礼しました」
 言うや否や、悪戯のばれた子猫みたいな機敏さで教室の出入り口まで移動した薫子。そんな彼女を、井上が呼び止めた。
 「福原さん。昼休み中に、漫画部の部室に来てもらえるかな? 俺と、君と、花井くんの三人で、少し話したいことがあるんだ」
 「OKよ」片引き戸を開きながら、薫子は言った。「購買で昼食を買ってから、部室に行くわ」
 「ちょうどいい、俺も購買で昼食を買うつもりだったんだ。一緒に行こう」そう言ってから、井上は薫子に向けていた視線を花井に移した。「花井くんも、部室、来てくれるよな?」
 「別に、構わないけれど・・・・・・」浜辺の首筋を窃視し続けることで、ようやく明瞭な不安が芽生えた花井らしい、曖昧な返事だった。「構わないけれども・・・・・・」
 「それじゃあ行くぞ」曖昧を飲み込む明確だった。「花井くんも昼食まだだよな。弁当か?」
 「弁当じゃないよ」
 「それなら、君も一緒に購買で買おう」
 「僕、お腹が空いてないんだ」吐息を漏らすように、ささやく。「恋で、お腹が一杯なんだ」
 「それは幻想だ。どうしたって腹は空く。君の肉体はエネルギー補充を必要としている。生きるために、食え」
 有無を言わさぬ断定に気圧されて、花井は不安に後ろ髪を引かれながらも立ち上がり、井上と薫子に付いて歩いた。
 教室を出ていく花井の、あどけない後ろ髪のはねを、浜辺はチラっと、それこそ令和の少女が冴羽獠のもっこりに対して行うチラ見の目で、追いかけた。振り返って、と願う。しかし、願いは叶わなかった。箸でつかんだだし巻き卵がひしゃげて、滴った汁が弁当箱の身を濡らした。
 購買部へと向かう道すがら、薫子と井上は部費の予算案について話した。生徒会と各部の力関係や大きな金額の話だ。これが花井は面白くない。阿久悠ではない、悪友。中学時代には公衆の面前で乳首やら何やらをいじくってきた、悪友。そんな薫子が、すらすらと大人染みた話をしていることに、劣等感を刺激される。
 『一人だけ大人の階段昇ったみたいになってさ。かっこつけるんじゃないよ』
 言わずもがな、子供染みた嫉妬だった。それは、稚拙な難癖が飛び出す引き金となった。
 「部費の話なんて、部長じゃない薫子には関係ない話だろ」
 「言ってなかったっけ?」振り向いて、花井の顔をまじまじと見る。「私、今年度から水泳部の部長よ」
 「何で? 薫子、僕と同じ二年生でしょ。漫画部みたいに三年生がいない部なら二年生の井上くんが部長をやっても可笑しくないけれど、水泳部はちゃんと三年生がいるじゃないか」
 「二年生が部長をやるのは、うちの学校じゃ普通のことだぞ」井上が言った。「三年生は受験があるから、二年生が部長をやることを学校が推奨してるだろ」
 「そうなの?」無知を吐露する。「全然知らなかったよ」
 「もうちょっと物を知りなさいよ」呆れ顔を見せてから、前を向く。「そんなんだから、いつまで経ってもお子ちゃまなのよ、あんたは」
 詰られて、屈辱に震えるも言い返す言葉が見つからず、花井は俯き、廊下の冷たいリノリウムを見詰め、とぼとぼと歩き続けた。
 薫子と井上が部費の予算案の話を再開した。花井は、とぼとぼとした歩調を強調し、「とぼとぼ・・・・・・」と口にまで出して、構ってオーラを醸し出した。しかし、そんな要求を通せる相手は過保護な親くらいなもので、同い年の二人は清々しく、とぼとぼを無視した。それで増々、とぼとぼは強まった。
 購買部に着いて、花井は鮭のおにぎりと野菜ジュースを買った。薫子は生姜焼き弁当を買い、井上は鱈子のおにぎりと焼きそばパンとポテトサラダとプリキュアの食玩を買った。
 B棟の1階にある購買部から4階にある漫画部の部室を目指して歩く。部費の予算案の話が一段落ついて、しかし薫子と井上はなおも大人びて、部長として部員たちとどう接していくべきか、なんて話を始めた。それで花井が面白いわけがない。見たまえ、彼の顔を。単身者の帰宅を夜通し待ったヨークシャーテリアみたいな顔をしているではないか。しかし、視界に入らないのであれば、哀れな顔も無いのと同じ。大人びた話は、続いた。
 階段に差し掛かった。健康な男子が後ろに控えていることなど気にも留めず、そもそも花井なんてぬいぐるみ扱いで、薫子は踏板を踏んだ。
 正しく無防備であった。スカートを押さえたりすらしていない。スカートの下にショートのペチパンツを着用しているからといって、花井がぬいぐるみだからといって、これはデンジャラスである。
 「よくないよ、薫子」この日、初めての紳士ムーブであった。「ペチパンツとはいえ、パンツだよ。丸見えだよ」
 「5歳の男の子が女湯に入ってきたって何ともないでしょ」無防備を改めることなく、階段を上がり続ける。「それと同じよ」
 『なんたる小生意気!』花井は心中で憤慨した。『僕を5歳児扱いしてからに! 許さない、許さないわよ、薫子!』
 紳士ムーブを一蹴される、それは母親を侮辱されるに等しい。報復は、必至。現に花井の目は、ペチパンツから離れ、薫子のウィークポイントを探し始めていた。
 臀部から脚部へ、報復のサーチアイは流れた。程よく筋肉のついた太腿と脹脛が、階段を一段上がるごとに、躍動する。目の前で、躍動する。4Dすら生ぬるい、ダイナミックモーションシアター。極めて機能的でありながら美醜の観点においても優れているその脚に、花井はインパラの脚を連想し、一時、報復を忘れ、見入った。
 鑑賞眼を以て脚を堪能したならば、後は心置きなく、リベンジマシーンと化すのみ。既に3階から4階へと至る階段に差し掛かっている。猶予はない、しかし、花井に焦りはなかった。彼には自信があった。女についての知識は浅い、けれど、薫子については熟知している。サドでありながらも敏感な女の子であることを理解している。焦る必要なんてないのだ。その余裕が、リベンジマシーンをゴールへと導いた。
 むき出しの、膝裏・・・・・・。
 『まるで脇の下だ』
 敏感を露わにした趣の、膝裏・・・・・・。
 『この無防備なひかがみに、息を吹きかけてやれば、さぞ愉快だろう』
 恐ろしい行為である。悪友であって彼女ではない、そんな女の膝裏に息を吹きかけるという、場合によっては御用の、ハイリスク。そもそも、これは人の道に反する行為ではあるまいか? クエスチョンマークを使うまでもない、人の道に反する行為です。しかし、人の道に反する行為さえ正当化してしまうのが、人間だ。
 『増長した薫子にはお仕置きが必要だ。これは更生のサポートみたいなものだ』
 それじゃあ、やるさ、どんなことでも。
 花井は虎視眈々と、薫子の膝裏に息を吹きかけるタイミングを、待った。
 3階と4階、その踊り場に、薫子が左足を乗せた、刹那に、好機と見た花井は、まだ段に乗せたままである右足の膝裏に向かって、全身全霊を込めた息を吹きかけた。
 痺れさとくすぐったさと心細さと・・・・・・閑静なB棟の上階に、薫子の嬌声が響き渡った。
 膝から崩れ落ちて、薫子は踊り場にへたり込んだ。
 薫子のリアクションに、花井は満足を覚えた。嬉々として踊り場に駆け上がり、薫子を見下ろす。
 「エッチな声を出しちゃって、恥ずかしいね、薫子」マゾがサドに裏返っていた。「僕なんかより薫子のほうがよっぽど敏感だね。銚子どころか、千葉一の敏感ボディだね」
 意気揚々と言いながらも、花井はいつでも逃げ出せる心構えでいた。過去の経験則から薫子の反撃を予測していたからだ。しかし、予測に反して、薫子はへたり込んだまま顔を伏せ、反撃の兆候を微塵も見せなかった。
 訝しんで、それが心配に変わるまで、時間はかからなかった。花井は、駅のホームでうずくまっている見ず知らずの女性に話しかけるみたいにして、「大丈夫ですか?」と薫子に声をかけた。すると、薫子は体を小刻みに震わせ、嗚咽を漏らし始めた。
 幼稚園、小学校、中学校、高校と、ずっと一緒だったけれど、薫子が泣いているところを花井は一度も見たことがない。だからこそ、動揺は激しかった。文字通り、あたふたしてしまう。
 「幼馴染の女子を泣かすなよ、花井くん」
 井上の呆れ果てた声に加害者意識を刺激されて、花井は、「薫子はこんなことくらいで泣く女子じゃないんだ! 僕のパンツをハンカチ代わりにしたって顔色一つ変えなかった女子なんだ、薫子は!」と弁解にならない言霊を叫んだ。
 薫子の泣き声が、強まった。
 「酷すぎるぞ、花井くん」
 追い詰められた。追い詰められて、追い詰められて、俺は悪くねぇっ! 俺は悪くねぇっ!! という花井の意志は、折れた。
 花井は、罪悪感に押しつぶされるみたいに体を屈め、薫子の震える肩にそっと手を置いた。
 「ごめん、薫子。薫子が泣くほど嫌な思いをするなんて、僕、思ってもいなかったんだ。だって、今まで散々スケベなことがあったけど、薫子、いつも笑ってたから。だから、僕、膝裏を刺激されることなんて薫子にとってはアメリカ人のハグ程度のものだと勘違いしてしまったんだ。ごめん。全力でスケベな息を吹きかけてしまって、ごめん。薫子を傷付けるつもりは全くなかったんだ。ごめん」
 俺は悪ぃっ! 俺は悪ぃっ!! そんなメンタルセットが言葉の隅々にまで宿る謝罪だった。これを人類は誠意と呼ぶ。
 「本当に・・・・・・」誠意に答えた、その声に、涙の気配は皆無だった。「お馬鹿ね、あんた」
 言うが早いか、薫子はガンマン顔負けの速度で両手を突き出し、その細く長い指で、花井の両乳首をつまんだ。
 淫らさとむずがゆさと心エロさと・・・・・・閑静なB棟の上階に、花井の嬌声が響き渡った。
 のけ反って、それが余りにも凄まじい勢いだったから、必然、花井はブリッジの体勢になった。
 「あたしが泣くわけないでしょうが」花井の両乳首をつまんだまま、薫子は乾く目を細めた。「長い付き合いなんだから、分かるようなもんでしょうに」
 「僕を油断させるための噓泣きだったんだね、薫子!」裏返っても所詮マゾはマゾで、震える声は憤りよりも快感が露わだった。「この卑劣漢!」
 「誰が漢だ、誰が」
 生意気な口をきくマゾには当然、お仕置きだ。乳首コリコリである。花井は悶絶した。
 「いい機会だから、あんたの乳首を本格的に調教してあげる」薫子は舌なめずりをした。「もう二度と、あたしに歯向かおうって気が起こせなくなるようにね」
 手先の器用な薫子である。そんな彼女が繰り出す乳首コリコリは、乳首に電マを押し当てるが如く、極上の絶技に他ならない。しかし、これでまだ実力の20パーセントしか出していないのだ。戸愚呂弟もびっくりである。その驚愕の真実を、花井は本能で察していた。
 『100パーセントでコリコリされたら、僕はどうなってしまうのだろう?』
 不安が脳裏をかすめて、けれどそこは変態、すぐに好奇の欲望が不安を上回る。
 花井は、ブリッジが崩れないよう肢体に鞭打ちながら、初な少女がファーストキスの際に目を閉じる様そのままに、そっと目を閉じた。
 「かわいいわね。それじゃあ、コリコリのレベルを上げるわよ・・・・・・80パーセント」
 「待て待て!」薫子の声に食い気味で響いた、井上の声だった。「調教はなし! 花井くんはもう福原さんが好き勝手していい存在じゃないんだ!」
 コリコリが、止んだ。代わりに、乳首をつまむ力が強まった。花井の嬌声が色を変えた。
 意図して、つまむ力を強めたわけではなかった。薫子の鼓動は、強まっていた。
 「それ、どういう意味?」井上に目を向けず、花井の顔を見詰めたまま、薫子の笑みは消えた。「どういうこと?」
 問われて、しかし花井は嬌声を上げるばかりだった。
 「花井くん」井上の声からは、軽蔑を隠す努力が垣間見えた。「君と浜辺さんの関係、福原さんに話してもいいな?」
 薫子の視線が花井の首をなぞった。乳首をつまむ力が、弱まった。
 刺激が弱まったことで人間の言語を取り戻した花井は、井上を見上げながら、「調教が済んでからで、お願いします」と言った。
 「馬鹿野郎!」銚子一温厚な高校生と呼ばれる井上が、声を荒げた。「浜辺さんと付き合っているくせに、他の女子のテクでメロメロになる奴があるか!」
 5月だというのに、椿の落ちる気配があった。それは、薫子しか気付けない、気付いてさえ理解できない、初な首だった。
 「付き合ってる?」わざとらしささえ自覚しない疑問形だった。「誰と誰が?」
 井上は、深呼吸して、「花井くんと浜辺さんだよ」と冷静な声で言った。
 乳首をつまむ指が、小さく震えた。花井の全身が、大きく震えた。
 乳首と指が、離れた。
 『ファクトだったんだ・・・・・・』
 令和である。リアルとネット、情報が無限に交差する全方位井戸端時代である。そんな時代にあっては、ありとあらゆるアンテナをへし折ってさえ、情報を完全に遮断することは、不可能。しかし、情報を取捨選択することは、可能だ。その点、薫子はドライ、入ってくる情報のほとんどはフェイク、あるいは誇張されたものだと断じている。だから、最初は、いつものくだらないゴシップとしか感じなかった・・・・・・2年D組の浜辺娃と花井潤、学校一の美人と3軍が付き合っている・・・・・・聞いた瞬間、鼻で笑った。それから、前髪の長さが気になって、マニキュアの色を変えようかと考えて、廊下の窓から見上げた空が高く思えて、自分の足音だけがはっきり響いて、いつの間にか2年D組の教室に入っていて、顔だけは知っている浜辺を視認して、浜辺に見入っている花井を睨んで、彼の耳に息を吹きかけていた。
 おもちゃを失くした程度のこと・・・・・・そんな見当違いな答えに自分の心を落ち着かせてしまうくらい、薫子の恋愛経験は乏しく、自己防衛は過剰だった。
 「槍が降るわよ、槍が!」薫子は、悲しいくらい、自然に笑えた。「変態しか取り柄のない潤が、女子と付き合えるなんて!」
 「変態しか取り柄がなくて、悪かったね」ブリッジを維持したまま、花井は頬をふくらませた。「それで、80パーセントはいつですか?」
 「やらないわよ、浜辺さんに悪い!」口にして、罪悪感が生じた。「あたし、浜辺さんに酷いことをしちゃった。折を見て、謝りにいかないと」
 「謝る? 何でさ?」きょとんとして、花井は言った。「どうして薫子が浜辺さんに謝るのさ?」
 ガチで言っているのだと、理解できた。薫子と井上は、未知の生物に遭遇した類の恐怖を覚えた。
 「苦労するわ、浜辺さん」
 「福原さんに激しく同意」
 4階から、三人の男子生徒が下りてきた。彼らの怪訝な眼差しに晒されて、花井は羞恥心を思い出し、ブリッジをやめた。
 「部室に行こう」言って、井上は階段を上り始めた。「昼休みが終わってしまう」
 指に残る熱を持て余しながら、薫子は井上に続いた。乳首に残る熱を持て余しながら、花井は薫子に続いた。