漫画部の部室に近付くと、茶道部の部室から漏れ出てくる、リバ、サンド、などの声が聞こえた。
「茶道部の腐女子ども、今日もボリュームのネジがはずれてやがる」
そう言いながら、井上は漫画部の部室のドアを開けた。
井上は、出入り口に最も近い椅子に座り、そうして、出入り口から最も遠い椅子に座るよう手振りで薫子に促した。
「井上くんの隣でいいじゃん」井上の隣の椅子を引きながら、薫子は言った。
「君は客だ。上座に座りたまえ」
薫子は、「つまらないことに拘るのね」と口にしながらも、我は通さず、促されたほうへ歩いていった。
花井が、井上の隣に座り、すぐさま、鮭のおにぎりにかぶりついた。
「三人で話したいことっていうのは・・・・・・」座って、薫子は目蓋に触る前髪を払った。「潤と浜辺さんが付き合っている件よね」
「そうだ」井上は焼きそばパンの封を解いた。「改まって話す必要はなくなってしまったがね」
薫子は、机に突っ伏した。その突っ伏しスタイルからは、たれぱんだ以上の重力が感じられた。
「あたし、マジで頭のおかしい女じゃん」心の重荷は、ポーズではなく、トゥルーだった。「浜辺さん、ごめんなさい」
「だから、どうして薫子が浜辺さんに謝るのさ?」
鮭のおにぎりを頬張りながら、さらっと言ってのけた花井は、正しくサイコの申し子だった。自称サイコパスよりよっぽど、サイコ。
ジェノサイドを察知する類の目で、井上と薫子は花井を見やった・・・・・・ハムスターみたいな花井を瞳に映し、不覚にも、可愛いと思ってしまう。そうして、可愛いに比例するのは、危機感。
男に愛情はない、あるのは責任感だけだ・・・・・・誰が言ったのかは忘れたが、そんな言葉がある。YouTubeで耳にしたと記憶するその言葉に、筆者は激しく同感だ。そうして、筆者は激しく嘆く。2026年現在、男は責任感すらも失ってしまったのだと、嘆く。愛情を持たない存在が責任感さえ失ったらどうなるのか、答えは、心を失ったモンスターになる、である。心を失ったモンスターとは、無に等しい存在である。故に、筆者は激しく嘆くのだ。これは、思想ではない。これは、真剣だ。
心を失ったモンスターだらけの世界、そんな地獄に、責任感を失っていない男がいた。井上だ。部長として友として俺が花井くんを更生してやらなければならない、という責任感、正しく男気。
微塵の躊躇もなく、井上は花井に、体の、男の正面を向けた。
「えぇ、恋という字はぁ」令和の現役高校生が、金八であった。「配慮と配慮が支え合って、出来ているんだなぁ」
まだ口の中に米が残っているというのに、花井は野菜ジュースをチューチューやり出した。金八が届いていないことは、明白だった。
「浜辺さんの気持ちを考えろって言っているんだ、このサイコ野郎が!」キレて、井上は花井の胸ぐらをつかんだ。「辛い思いをしているぞ、浜辺さんは!」
本を読めなくなった人たち、の時代である。善し悪しに関係なく、抽象的な情報が蔑まれ、具体的な情報だけが尊ばれる暗黒の時代である。そんな時代にどっぷり浸かった花井に、断言は、届いた。
「浜辺さんが辛い思いをしているって、どういうことなのさ!?」サイコを脱して、花井は井上の胸ぐらをつかんだ。「どういうことなんだい!?」
「相手の気持ちになって考えろ!」胸ぐらに指が絡まる。「男に耳を愛撫されて喘いでいる浜辺さんを見たら、花井くん、君はどういう気持ちになるんだい!?」
「その男をころして、ぼくも死ぬ!」野比のび太の気持ちであった。「その男をころして、ぼくも死ぬ!」
「浜辺さんも同じ覚悟だと知れ!」
「なんてこったい!」
こうして花井は道理を理解した。理解したら最後、後は飲み込まれるのだ、罪悪感の濁流に。
「ぼくをころして、ぼくも死ぬ!」罪悪感の濁流であった。「ぼくをころして、ぼくも死ぬ!」
サイコであれば苦しみはなく、人間であれば苦しみがあるという、不条理。人類はこれを、カフカ半端ないって、と言う。
花井は、井上の手をつかんだ。そうして、胸ぐらではなく首をつかませようと、手と手で通じ合う。
「ぼくをころして、きみも死ぬ!」手と手で通じ合う。「ぼくをころして、きみも死ぬ!」
「君の償いに俺を巻き込むんじゃない!」
乱暴に手を振り払い、立ち上がって、花井から距離を取る。責任感を失っていない男とはいえ、友と心中してやれるほどの男気は有していない。肉体的、社会的生存が至上命題である種として、井上の対応はナチュラルだった。
「嫌われてしまったよ、浜辺さんに!」償うジーフィーを失った罪悪感が、利己に変わった。「目の前で浮気同然のイアーセックスに興じてしまったんだ! パールヴァティーがカーリーに転じる案件だよ! 嫌われたに決まってる! ああ! どうしよう! 別れを告げられたら、どうしよう! 浜辺さんとお別れになったら、僕は生きていかれない! 運良く、あるいは運悪く生き長らえたとしても、女の人を愛せる心身ではなくなっちゃう! 男としての僕は、絶対に死んじゃうんだよぉ!」
依然として茶道部の部室からは、ワンコ、ナマモノ、などの声が聞こえてくる。そんな腐った環境にあって、花井の絶叫は雄の花弁が如く淫らに開いた。
女にとって、男の淫らは愉悦である。これは腐女子特有のサガではない。故に、薫子は自らの昂ぶりを持て余した。自身の悪戯に端を発したイアーセックス、薫子の罪悪感は一入だ。だけど笑みがこぼれちゃう、女の子だもん。この笑みを許容し、その許容を性に昇華すれば、腐女子になる。この笑みを拒否し、その拒否を性に昇華すれば、レディーになる。大きな分かれ道・・・・・・薫子は、笑みを拒否した。
ごめんなさい、潤、私も一緒に浜辺さんに謝るわ・・・・・・という声が喉まで出て、しかし、絶叫が止んだ刹那の、花井から向けられた憎悪によって、出かかった声は引っ込んだ。
「薫子のお馬鹿! 薫子が僕の耳に息を吹きかけたりしたから、こんなことになったんだ!」利己だからこその、他責であった。「どうして人の幸せを壊すようなことをするのさ!? この悪魔!」
カチンときた。生来、気の強い女だ。カチンとこないわけがない。
感情をエネルギーに変える女のエンジンで、フルスロットル! 罪悪感さえ、瞬く間に置き去りとなった。
「あんたがビンビンに感じるのが悪いんでしょうが!」立ち上がっちゃう程の勢いだった。「彼女が見ていたんだから、慎みなさいよ、この変態!」
「無茶を言うんじゃないよ!」花井も立ち上がっちゃう。「僕は16歳の男の子だよ! 耳たぶにメープルシロップが掛かっただけで射精しちゃう生き物だよ! 去勢でもしない限り、感じないなんて不可能だよ!」
「それなら取っちゃいなさいよ、キンタマ!」ブレーキを知らない、故に、女。「それでスケベが直るなら安いものよ!」
「タマをころして、ぼくも死ぬ!?」女の過激に打ちのめされる、故に、男。「タマをころして、ぼくも死ぬ!」
男と女の口論はエターナル、その真実は、Xを見れば秒で理解できる。エターナルをブレイクするには、調停者が必要だ。Xはもちろんのこと国際社会にすら存在しない調停者、そんな大役を担える人物は、そう、千葉県一の人格者と名高い井上しかいない。
「アメリカじゃねぇ!」人格者の一喝だった。「争うな!」
正しく、千葉県は銚子市であった。太平洋のさざ波は、優しかった。
井上が、窓を開け放った。新緑の風が薫子の襟足を揺らす。
恥が、あった。己の愚行を棚上げして人を責めた恥だ。その恥を自覚できない人間は、ヒャッハーである。Xを見れば秒で見つけられる。ヒャッハーにはなってくれるなと、筆者は少年少女に願う。けれど、願う必要はなかったみたい。ほら、花井も薫子も、ちゃんと自らを恥じている。これなら、大丈夫だ。
「一緒に、謝るわよ」座って、花井の唇を見やり、更に視線を下げて、薫子は言った。「あんたと私が唯の幼馴染だってことも、一緒に説明する」
「ありがとう、薫子。けれど、気持ちだけ受け取っておくね」座って、薫子の、後方に広がる青空に、浜辺の姿を浮かべて、花井は言った。「一対一で、誠心誠意、謝罪するよ。浜辺さんは、大切な人だから」
そこに愛はあるんか? 愛は、あった。広告とは違う、口先じゃない、愛・・・・・・なに? 男に愛情はないんだろ、って? 騙されるな! YouTubeの、メディアの情報なんてフェイクだらけだ! 男にも、愛情は、ある! 同感はしないが、真実だ! 筆者は物事を客観的に見れる人間です!
女の共感力は、男の100億倍・・・・・・そんな言葉がある。大丈夫、メディアで耳にした言葉じゃない、筆者のハートから生まれた言葉だよ。兎にも角にも、女の、薫子の凄まじい共感力である。感じ取ってしまうのだ、ビンビンに。花井から浜辺への想いを、ビンビンに。
胸が、痛む。それを、生理が近いから、で済まして、生姜焼き弁当を掻っ込む薫子の、処女は清爽に隠れた。
漫画部の部室から見下ろせる、中庭の噴水が、光の粒を水面に湛えた。迷い込んだ猫が、瞬きを嫌って、陰にすべり込んだ。
ダイエット中の女子みたいな食事量で、あっという間に手の空いた花井は、ガラスキャビネットから手付かずの漫画原稿用紙一枚と、丸ペンと、黒インクを取り出した。そうして、うんうんと唸りながら、丸ペンを走らせる。
「文化祭の同人誌に着手するのか。良い心がけだ」漫画部の部長らしい、井上の言霊だった。「下書きなしで墨を入れる度胸が好ましいね」
「漫画なんか描かないよ」漫画部の部員らしからぬ、花井の言霊だった。「浜辺さんへの手紙を書いているんだ」
「部の消耗品、それ!」漫画部の部長らしい、井上の言霊だった。「平然と私物化しないで!」
1年以上の付き合いが、あった。故に、花井は井上という人間を熟知していた。
『声を荒げたところで、結局は許容してくれるんだから、井上くんは』
見透かしているのだ、中年男性に対する頂き女子みたいに。それじゃあ、果てしなく大胆になるさ。
花井は、決して安くない黒インクを、ペン先にたっぷりと吸わせた。
惚れたら負け、そんなこと、獣だって分かっている。当然、井上だって分かっている。分かっていて、けれど惚れちまうんだから、男はつらいよ・・・・・・惚れるっていうのは、性愛に限ったことではない。井上は、ガチの異性愛者だ。花井が女の子みたいな顔をしているからといって、ペニスがついている時点でアウト、性の対象にはなり得ない。その上で、惚れている。人として惚れているのか? 違う、そうじゃない、甘ったれの花井に人としての魅力はない。それでは、何に惚れているというのか? 出来の悪い部員、という属性に惚れているのだ・・・・・・古来より言い伝えられる言葉がある。出来の悪い子ほどかわいい。正に、それなのだ。ろくすっぽ漫画を描かず、そのくせ漫画部を私物化する花井が、部員として出来が悪すぎて、かわいくてかわいくて、しょうがないのだ。父性7母性3でブレンドされた、ある種の庇護欲は、惚れているに等しかった。
井上は、腕を組み、憤慨を示しながらも、その瞳は穏やかで、満たされていた。
愛を、したためる。島本和彦先生と同等の熱量で、漫画原稿用紙に、丸ペンで、愛をしたためる。今にも紙が燃え上がっちまいそうだ。それくらいの、熱量。
生姜焼き弁当の、減る速度が緩まった。目が行ってしまうのだ、強い熱量に・・・・・・思い出す。幼稚園で、母の日に、母親の絵を描いたことを。あの時、花井は一生懸命にクレヨンを走らせていた。美しい思い出、それが霞んでしまうほどの、現在目の前で繰り広げられる一生懸命。一生懸命の次元が違う、正しく死に物狂い。幼稚園児にとっての母親以上、それが今の花井にとっての浜辺なのだと、知る。
「ラインで良いじゃん」
無意識に、呟いて、ハッとして、胸の痛みが、痛みの種類を変えた。
「デジタルは軽い!」花井が、漫画原稿用紙から目を離さず、言った。「アナログは重い!」
そんなこと、言われなくても分かっている。令和の現役JKとはいえ、否、むしろ令和の現役JKだからこそ、分かっている。アナログは、重い。
居たたまれなかった。尻に剣山を押し当てられているかのようだ。その剣山の正体が恋心であると、この期に及んで尚、理解できないネンネで、再び見せた掻っ込みの、生姜焼き弁当の減る速度は部活終わりの男子バスケ部員のそれよりスピーディーだった。
「あたし、帰るわ」生姜焼き弁当を平らげて、立ち上がる。「昼休み、もうそんなに時間ないし」
井上は、薫子を見やった。骨格まで透視しているかのような目で。
「弁当の容器は、そのままでいいよ。後でまとめて捨てるから」漫画家志望の観察眼で、井上の声は思慮に満ちていた。「話を聞いてくれて、ありがとう、福原さん」
「こちらこそ、ありがとう、井上くん」
重たい表情筋を引き上げて、薫子は不明瞭に手を振った。
部室の出入り口まで歩いて、振り返り、こちらを見向きもしない花井を目にして、すぐに井上のほうへと視線を動かし、また不明瞭に手を振った。
「5時限目、遅れないようにね」
つまらない事を言ったと思いながら、廊下に出て、冬みたいな冷えを感じ、薫子は小走りで、リノリウムを鳴らした。
可憐が去って、切なさも去った。井上は徐に窓を閉めた。いつの間にか茶道部の声は聞こえなくなっていた。掛け時計の針が主張を始めた。
漫画原稿用紙に向けられる不純な一心不乱を脇目に、井上は、焼きそばパン、鱈子のおにぎり、ポテトサラダを全て、腹に収めた。そうして、デザートに手を伸ばす。
井上が購買部で買ったプリキュアの食玩は、醤油シェア世界一を誇るムラシタ醤油と東映アニメーションのコラボによって実現した商品だった。すなわち、醤油せんべいにフィギュアが付いてくる超硬派である。
デザートにしては厳つい醤油せんべいを食らいながら、フィギュアのラッピングを解く。フィギュア化された22人のプリキュアのうち、1人がランダムで手に入る仕様だ・・・・・・蛍光灯の淡い光に照らされたのは、キュアホワイト。
テーブルに置いたキュアホワイトを、井上は見詰めた。その目に、性的なものはなかった。その目にあるのは、二次元を三次元として、また三次元を二次元として捉えようとする、漫画家志望の探求心だけだった。
ここに、最強のコントラストが成った。かたや恋愛に塗れる少年、かたや芸術に塗れる少年、圧倒的な光と闇、レンブラントもびっくり。
千葉県の片隅がルーブルと化した、刹那に、キング・クリムゾン! 時間が、消し飛んだ。
愛をしたためた漫画原稿用紙は、ミウラ折りでコンパクトに畳まれている。キュアホワイトの隣には、キュアブラックが置かれている。
「後はこれを浜辺さんに渡すだけだ」時間が消し飛んだことに気付かぬまま、花井は言った。「井上くん、よろしくね」
「俺が渡すのか?」時間が消し飛んだことに気付かぬまま、井上は言った。「その手紙を浜辺さんに?」
「うん。そうだよ」愛されることしか知らないかのような声音。「井上くん、よろしくね」
「甘ったれるんじゃない!」父性が、爆発した。「自分で犯した過ちならば、一から十まで、自分の力で償いなさい!」
正論だった。しかし、今は令和だ。正論に人権はねぇ。
アメリカ人がくさやを食したらどうなるか? 答えは簡単だ、発狂する。これは、アメリカ人が軟弱だからではない。くさやが危険物だからという訳でもない。偏に、慣れの問題なのだ。慣れがないからこそ、人は発狂するのだ。
人権がねぇ、故に、レア。不慣れを真正面から浴びて、必然、花井は発狂した。
「きみをころして、きみは死ぬ!」花井は井上の首を両手でつかんだ。「きみをころして、きみは死ぬ!」
「それ、唯の殺人!」女の子みたいな握力を振り払いながら。「情状酌量の余地すらない!」
女の子みたいな握力では、人はころせない。暴力によって我がままを通すことは、不可能。それでは、如何にして我がままを通すのか? 簡単だ、情に訴えればいい。暴力より、簡単だ。
花井は、大粒の涙をまき散らしながら、土下寝した。
「助けてください! 助けてください!」助けてください! の合間に、瞳をとじて、を口ずさむ徹底ぶり。「助けてください! 助けてください!」
これに、弱いのだ。毛深い女は情が深い、という格言がある。そのロジックでいくと、毛深い男は果てしなく情が深い、というアンサーに到達する。井上は、毛深い。男気と男性ホルモンが比例しているのだ。それじゃあ、弱いさ、情に。
「寄越しなよ、手紙」声帯にまで毛が生えているかのような声だった。「俺が恋のメールマンになってやる」
甘々だった。お子様カレーに蜂蜜を垂らしたみだいだ。正しく、男。
了解を得て、しかし直ぐには土下寝をやめなかった。そうして、花井は井上の死角で、ほくそ笑んだ。正しく、女。ペニスはついているが、性質は、女。
助けてくださいが夢の跡。ヘルプが約束されたのだから夢の跡。昼飯も食った。もうこれ以上、臭い部室に男二人で居る必要はない。帰ろう、教室に。5時限目が待っている・・・・・・あれれ~おかしいぞ~? 掛け時計の太い針が、4を指しているぞ~?
事ここに至ってようやく、二人は時間が消し飛んでいたことに気が付いた。
「5時限目はおろか、6時限目すら終わっとる!」花井は絶叫した。「井上くん! 今日の授業、何時限目まで!?」
「うちの学校に7時限目はないぞ」慌てふためく花井とは対照的に、井上は落ち着き払っていた。「手紙、渡すのは明日だな」
「そんな悠長があるかい!?」花井は井上の首を両手でつかんだ。「うんちをした翌日に尻を拭く悠長があるかい!?」
「どうしろっていうんだ!?」女の子みたいな握力を振り払いながら。「とうに下校時間だ! 浜辺さんは部活に入っていないだろう!? 彼女の家までメールマンしろってか!?」
「浜辺さん、バイトがない日は遅くまで学校に残ってるって言ってた!」手紙を井上の胸ポケットに入れる。「探して、渡して!」
「今日は、バイトがない日なのか?」
「知らないけど、探して、渡して!」
「バイトがない日だったとして、浜辺さんがどこに居るか見当はつくか?」
「つかないけど、探して、渡して!」
地獄の概念がある。コスパとタイパである。この二つの概念が人類を破壊して久しい。しかし、大丈夫だ。コスパもタイパも旧世代の概念だ。アルファ世代には関係ねぇ。子供たちよ、君たちは自由だ・・・・・・すなわち、井上も自由だ。
伊達に漫画を描いちゃいない、自由の尊さはペンだこレベルで骨身に刻まれている。だからこそ、井上が不自由の鎖を断ち切るまでに時間は掛からなかった。
「走るんだよォ!」
感情100パーセントで、叫んでいた。その叫びが君ヶ浜まで届いたとき、井上はもう部室を飛び出していた。
フリーダムでなくては出来ないこと、それこそが真のアオハルである。あてもなく走れちゃうのだ、真のアオハルは。メロスよりハード。しかし、それがいい。損得も効率も度外視する、それが気持ちいいのだ。気持ちいいを忘れた旧世代に捧ぐ、アルファ世代の全力ダッシュ。
「走るんだよォ!」
ジョッキーが馬の尻をひっぱたく要領で、花井が叫び、それで加速して、井上は校内を駆けまわる光となった。
「僕も行かなくちゃ」そう呟いて、花井も部室を出た。「約束の地、ポンプ小屋へ・・・・・・」
黄金色の兆しは薄い雲に遮られていた。凪は噴水の水面にさえ薄氷の趣を与えた。深まった陰を揺らす猫の寝息が、甲高い声で途絶えた。
猫が駆け出して、二人の女子がスマホ片手にその後を追った。
噴水そばのベンチに座れば、少し顎を上げるだけで、漫画部の部室の窓を視界に収めることが出来た。そうして、浜辺は何度、顎を上げたことだろう? 44回である。6時限目の授業終了後、中庭に出て、ベンチに座って、30分ほど時を過ごしたうちで、44回である。四十肩が気になる事務職員より顎を上げすぎ。それ程までに、浜辺の注意は漫画部に向いていた。
昼間のスタバに生息する見栄っ張りのノートパソコン同様、ファッション以上ファッション未満と化していた文庫本を、浜辺はそっと閉じた。
昼休み、漫画部へ行くと言ったきり帰ってこなかった花井と井上・・・・・・。
「あの薫子って女と一緒に・・・・・・」
そう呟いて、ハッとする。女、と言ってしまった。憎しみの滲む声で、女、と言ってしまった。あの薫子って人と一緒に、と発声しようと脳は処理していたのに、女、と言ってしまった。
昨今の、清らかな恋愛ブームである。そのエロを排したラブストーリーに興じる人々を絶望のどん底に叩き落すのは忍びないが、真実を伝えるのが小説家の使命である以上、筆者は心を鬼にして記す・・・・・・男は下半身で考える生き物である! つまるところ、脳は飾りなのである! 全ての言動は下半身によってコントロールされているのである! エロを一切排するなど、不可能! 一方の、女。脳が飾りであることは、男と同じである。しかし、下半身に全てをコントロールされるほど女は単純ではない。それでは、女はどこで考えるのか? ハートである。ハートに言動の全てをコントロールされるのが女である。それじゃあ、しょうがないじゃないかぁ。ハートが薫子を、泥棒ネコ、と断じたのだから、しょうがないじゃないかぁ。
教室で繰り広げられたイアーセックス、その一部始終が脳裏に焼き付いて離れない。悔しい? 悲しい? 違う、そんな生易しい感情ではない。憎い、それくらい強い感情。だらしなく崩れた花井の相貌が憎いのではない。所有物を弄ぶかのような薫子の、女の顔が、憎いのだ。
『私の、花井くんなのに』
昨今の、清らかな恋愛ブームである。その痛みを排したラブストーリーに興じる人々を絶望のどん底に叩き落すのは忍びないが、真実を伝えるのが小説家の使命である以上、筆者は心を鬼にして記す・・・・・・愛と憎しみはバディ! 愛憎、と書いて、ラブストーリー、と読む!
正しく、浜辺はラブストーリーの主人公であった。
愛憎の強さとハートの負荷は比例する。今現在、浜辺の愛憎の強さを数値化すると、530000になる。ハートがエンジンである女にとって、これは危険な数値だ。今すぐ、負荷を逃がさなければならない。すなわち、愛憎にブレーキをかけるのだ。これが出来ない女は、ハートブレイクプリキュアと化す・・・・・・どういうことかというと、ハートがブレイクしてしまう、ということです。その真理を、浜辺は防衛本能で理解していた。
大抵の女は、愛憎に飲み込まれ、ハートブレイクプリキュアと化してしまう。そうして、恋愛なんて二度としねぇ、というメンタルセットを形成するに至る。そんな女のテンプレートを脱するには、主観を捨て、客観を得なければならない。これが、難しい。恋愛の最中は誰もがラブストーリーの主人公である訳だから、難しい。しかし、そこは浜辺、クラス委員長として得た経験がある。クラスメイトという名のモンスター、その十人十色を正しく理解するため、常日頃から客観を意識しているのだ。だったらイケるぜ!!!
『挨拶、だったのかもしれない』客観を以て、浜辺は思考した。『千葉県の人にとって、耳に息を吹きかけるのは、アメリカの人がハグするのと同じ意味なのかもしれない』
中学までは山梨県に住んでいた浜辺である。故に、未だ謎多き千葉県民は現実逃避の材料に最適だ・・・・・・そう、現実逃避である。耳に息を吹きかけるのが挨拶、そんな狂った民族は、地球上に存在しない。キリストの教えを忘れたアメリカ人でさえ、そこまで狂ってはいないぞ。
哀しみに満ちた時代、令和。必然、巷は麻酔コンテンツで溢れかえっている。訳の分からないマンガやらアニメやら、そういったヤクブツでガンギマリできるのであれば、それは幸福である。しかし、当然のことながら、人間には個体差がある。麻酔がキマラない人間は一定数いるのだ。浜辺も、そんな不幸な人間の一人だった。
『あれが挨拶であるわけがない!』素面だからこそ辿り着く、トゥルー。『あれは間違いなく、性行為の一種だった!』
女の顔、女の顔、女の顔・・・・・・コンクリートに広がっていく、その陰影にさえ、薫子の顔が浮かび上がる、ノイローゼすれすれ。
『彼女、絶対、好きだよ、花井くんのこと』
憎しみは、火種だった。不安の火種だ。
じわっと、背中に汗が広がった。キャミソールはおろかシャツまで張り付く。
椅子を倒しそうな勢いで立ち上がり、けれど歩を踏み出せず、浜辺は座り直した。
PIXIVなんて見たことない、そんな浜辺は、3P、などという卑猥な概念を知り得ていない。けれど、想像してしまう。
『花井くん。授業も受けずに、漫画部の部室で、井上くんと、彼女と、ナニをしているの?』
交際を始めてまだ二週間ほどだが、既に花井の変態性は理解している。それが、不安をブーストした。
薫子をバックから突きつつ、井上にバックから突かれる花井・・・・・・そんな惨劇が目の前で繰り広げられているかのように錯覚する、ノイローゼ。
不安の限界で、しかし漫画部の部室に突入する覚悟は、決まらない。怖いのだ。想像通りの光景を目の当たりにしたとき、自分がどうなってしまうのか、なんとなく分かって、怖いのだ。
『私、花井くんを、殺してしまう』
誰かに盗られるくらいなら、あなたを殺していいですか。石川さゆりレベルで、切実。
天城越え、という名のビッグウェーブ。それに颯爽と乗っかるのが、自己嫌悪。なみのりピカチュウならぬ、なみのり自己嫌悪だ。
『私、こんなにも、嫉妬深いんだ』
人の醜さを知り己の醜さをも知る、それが恋愛である。無痛コンテンツの対極なのだ、恋愛は。
逃げてしまいたいと、思う。痛いのは嫌さ、誰だって。それでも、それでもだ。それでも、痛いところで踏ん張っちまうのが、恋愛だ。踏ん張れちまうのが、恋愛だ。人を愛するとは、そういうことです。
痛い、痛い、痛い。自分の性質が、痛い。花井の気持ちの不確かさが、痛い。薫子を、人を憎むことが、痛い。それらの痛みに処置したくて、しかし、漫画部の部室に突入するなり花井にラインするなり、そういった現状打破の行動を起こすことが、できない。
『私が花井くんを信じられていないこと、花井くんに伝わってしまうから・・・・・・』
結局のところ、最も恐ろしいこととは、好きな人に嫌われる、それなのだった。故に、人は身動きが取れなくなり、痛みに悶え続けることとなる。
学校一の美人だろうが、前年度の期末テスト学年一位だろうが、関係ない。浜辺は、ありふれた、恋する少女だった。
座ったまま、身をよじる。ローファーに隠れたつま先が、ギュッと丸まる。唇が渇いて、肌がヒリヒリして、瞳だけが悔しいくらいに潤った。
束ねた髪が、そよぐ。
心象風景であるかのように、清潔な中庭は明暗が強まる一途だった。
不意に、黄金の飛沫が舞った。それは無感情な水滴ではなく、アオハルの血潮だった。
アオハルはアオハルにひかれ合う! スタンド使いみたいなものだ。故に、浜辺の目は自ずと、夕日をバックに立つ井上のポージングに向けられた。
「井上くん!?」
浜辺の叫び声に、井上は笑みを返し、そうして、倒れた。
アレクサンドロス3世の行軍に参加した兵士みたいに、井上はボロボロだった。当然だ。一時間近くもノンストップで校内を走り続けていたのだから。
「井上くん!」
バッグから水筒を取り出し、浜辺は井上に駆け寄って、中身のミネラルウォーターを飲ませてやった。
「どうして、こんなにボロボロなの?」そばの花壇の縁に井上を座らせて、浜辺は尋ねた。
「愛のメールマンだからさ」ニヒルに答えて、井上は胸ポケットから手紙を取り出し、それを浜辺に差し出した。「もう一杯、ミネラルウォーターをくれないかい?」
手紙を受け取って、水筒を手渡す。
言葉通り、もう一杯のミネラルウォーターを喉に流して、井上は立ち上がった。
「役目は果たした。俺は去るよ。愛のメールマン、だからな」
チョー気持ちいい! 見返りを必要としないって、チョー気持ちいい! そんな風に思っちゃう、井上はまだまだ若い。その気持ちよさがそのまま報酬なのだと、後十年もすれば、彼も気が付くことだろう。
去り際の、井上のニヒルなウォーキングに、吹奏楽部の演奏が重なった。Get Wild・・・・・・シティハンター気取りで、井上は夕日の沈むほうへと歩を進めた。これもまた、報酬。
井上の姿が見えなくなって、浜辺は胸に押し当てたままにしていた手紙を見詰め、それから、小走りでベンチに戻った。
バッグに、水筒を入れて、文庫本も入れた。その間もずっと、手紙は放さなかった。
大きく、深呼吸をする。
ミウラ折りの開き方は理解している浜辺である。一秒も掛からずに開けるのだ、ミウラ折りだもの。そうだというのに、もう一つ大きな深呼吸。
浜辺は、恐怖していた。
『私より、彼女のほうがいいって、書いてあったら・・・・・・』
恐怖の特効薬、それは勇気、ではない。勇気が及ばぬからこその恐怖なのだから。では、ここで試合終了か? 違う、そうじゃない。恐怖に打ち勝つ術はある。聡明な浜辺は、それを手にしつつあるのだ。
『花井くんをころして、わたしも死ぬ!』
そう、それでいい。野比のび太理論こそが、全ての突破口となる術。つまり、死ぬ気になれば何でもできる、ってやつだ。
死ぬ気が恐怖を飲み込んで、ミウラ折りは、開かれた。
手紙に目を落とし、最初に視認したのは、隅に描かれた可愛い熊の絵だった。二頭身の立ち姿で、両手を後ろに回し、照れた顔をしている、熊。
「はぐぅ!」
雌の獣みたいな声が、浜辺の口から漏れ出た。やむを得ない。可愛いは、女の核に作用するからだ。もちろん、人間である以上、個体差はある。しかし、約90パーセントの女は、可愛いで悶絶するのだ。これは、はんすけ女体研究所の統計である。
乳腺が、むずむずする。女性ホルモンが過剰に分泌されているのだ。これは不味い。一度手紙を閉じ、ホルモンバランスを整えてから再度読み始めるのが賢明な判断だろう・・・・・・賢明な判断、そんなものは、冷静と情熱のあいだ、その冷静寄りの際に下せる判断だ。不意打ち同然の可愛いを浴びて、既に雌の獣と化した浜辺は、がっつり情熱寄り、賢明な判断など下せる状態ではない。
可愛い熊の絵には、吹き出しが添えられていた。そこに、視線が動く。
吹き出しの中には、浜辺さん大好き、と書かれていた。
「ほぐぅ!」
乳歯すら生えそろっていない赤子に乳首を吸われるが如き、悦楽。可愛い、などという抽象的な概念が、授乳、という具体的な事象に転じた、稀有なケース。授乳、とは言ったものの、浜辺は処女だ、ミルクは出ない。女性ホルモンが過剰に分泌されているとはいえ、限度がある、ミルクは出ない。しかし、ミルクが出ずとも、乳首を吸われることは出来る。ミルクの有無が女を差別することはないのだ。断言しよう。女は全て女であり、母は全て母である。
くすぐったい、が過ぎた。乳首だ。刷毛で撫でまわされているかのような、セクシュアルプレジャー。イマジナリーベイビーとはいえ、赤子離れした口使い。
色の混じった笑い声を上げ、浜辺はベンチから転げ落ち、地に横たわって、善がった。正しく、痴態。優等生美少女にあるまじき、痴態。けれど、大丈夫。幸か不幸か、今現在、中庭には浜辺以外、誰もいない。そうして、吹奏楽部の演奏は続いている。故に、浜辺の淫らな笑い声は、隠れた。それじゃあOK! 何も恥ずかしいことはないね!
正しく、リスクゼロの青姦。浜辺は、唯々、快楽に興じた。
やがて、吹奏楽部の演奏が終わった。その頃には、イマジナリーベイビーは寝息を立てていた。このイカれたベイビーが今、しゃぶっているのは、浜辺の乳首ではなく、自身の親指だった。
笑い死に寸前だった。膝ばかりでなく全身が笑って、ベンチに座り直すだけでも果てしない労力と時間を有した。
背もたれに全体重を預ける。火照った体に爽やかな風が染みる。どんどん速度を増していく雲の流れをぼんやりと見詰めているうち、汗は引き、息も整った。
まだ少しだけ震える手で、手紙の裏を撫でる。笑い狂っていたときでさえ、放さなかった手紙。愛していた。花井を、これ以上ないってくらいに愛していた。そうでなくては、浜辺さん大好き、という吹き出しの文字だけで笑い死に寸前まではいかない。
愛とは、命懸け。
『手紙の本文を読む前から、こんな調子で、私、全てを読み終わるころには、壊れてしまっているかもしれない』
愛とは、命懸け。20歳を過ぎたって、30歳を過ぎたって、40歳を過ぎたって、愛に殉じる覚悟は決まらいもの。それを、弱冠16歳で、浜辺娃、決める。愛ゆえに。
手紙の表を、天にさらした。そうして、文面を瞳でなぞる・・・・・・。
愛しい浜辺さん。僕です。あなたの恋の奴隷、花井潤です。愛してます。
浜辺さんは、僕の理想の女性です。あなたに出会えたことがそのまま幸福。愛してます。
僕は浜辺さんの美しい顔が好きです。
僕は浜辺さんの健康と美が両立する体が好きです。
僕は浜辺さんの磨かれた知性が好きです。
僕は浜辺さんの天性の身体能力が好きです。
僕は浜辺さんの誰にでも優しい心が好きです。
僕は浜辺さんの全てが好きです。
浜辺さん、生まれてきてくれて、ありがとう。浜辺さん、僕と付き合ってくれて、ありがとう。
誰よりも美しくて、誰よりも賢くて、誰よりも優しくて、誰よりも可愛い浜辺さんが、大好きだよ。
「うほぅ!」
エッチな声が、出た。まだ手紙の半分しか読んでいないというのに、エッチな声が出た。
くどいようだが、女はハートで生きている。それ故、ハートの開発は進んでいる。言葉、やれ美しいだの、やれ可愛いだの、やれ好きだの、そんな言葉に、性を刺激されてしまうほど。この開発が究極まで進めば、髪切った? の一言で絶頂できてしまう。それが、女。つまるところ、言葉が大事。言葉が、大事。
この世のありとあらゆるエロASMRで開発されたお姉さま方とは違う、汚れを知らない16歳。それでも、女は女だ。甘い言葉に、感じちゃう。ましてや愛する男からの言葉、感じちゃうがブーストしちゃう。
はじめに言葉ありき、とは言い得て妙だ。ヨハネは真理を分かっている。何が言いたいのかって? 万物は言葉で作れちゃう、ってことさ。百聞は一見に如かず。ほら、見てごらん。美しい、可愛い、好き、そういった言葉が形を成していくよ。イマジナリーだけど、形を成していくよ。何の形だろう? ああ、電マだね。イマジナリー電マだ。
気持ちいい言葉の数だけ電マがある。結果、浜辺は無数の電マに取り囲まれた。もちろん、どれもイマジナリーだ。全年齢対象だ。
不意打ちで、一台の電マが浜辺の左肩を刺激した。それで芯から震えてしまう、敏感。やむを得ない。乳首のくすぐったさで全身の感度が上がってしまっているのだから、やむを得ない。
浜辺は上体を右に振った。左肩の刺激から逃れようとしたのだ。しかし、忘れてはいけない、電マに取り囲まれていることを。逃げた先に、電マが待ち受けているぞ。今度は右肩に電マの刺激だ。
嬌声が、出た。ボリューム大だ。吹奏楽部が、キューティーハニー、を演奏し始めていなかったら、たちまち風紀委員が飛んできたことだろう。それくらい、エロい嬌声だ。
今度は、上体を左に振る。必然、左肩の電マがおかえりなさい、刺激のリピート、芯から震えちゃう。そうして、再び上体を右に振って、右肩の電マがおかえりなさい、刺激のリピート、嬌声が出ちゃう。正しく、電マ無限地獄。世界よ、これがジャパンハイスクールだ。
右へ左へ刺激のラリー。それで終わりじゃないから、地獄・・・・・・全ての電マが一斉に、浜辺の全身にシュート! 超エキサイティング!
必然、潤い満ちる女の園。アルカリ性の蜜が蔦を払う。清流は、届かぬ矛への夢想で憂いを示し、しかし健気は美麗の表裏、かくも素晴らしき愛の道しるべ。さあ、歌おう・・・・・・オー・シャンゼリゼ、オー・シャンゼリゼ。
ショーツに、愛が描かれた。
快楽の渦中、されど、さすがに不味いと判断できるだけの理性は辛うじて残っていた。手紙を、放り投げる。すると、あら不思議、イマジナリー電マは全て消え去ったとさ。
17歳の男子アスリートと12時間ぶっ続けでベッドを共にしたかのような、疲弊。体は火照り、息も絶え絶えで、視界がチカチカする。それでいて、ショーツに意識が向く自我の強さ。タイミング悪く、今日は替えのショーツを持ち歩いていない。
急がば回れ。目をつぶり、全身の力を抜いて、リラックス・・・・・・2分ほどそうして、身体はある程度の正常を取り戻した。
浜辺は、周囲を見回した。依然として、中庭に居るのは自分だけ。校舎の窓ガラスにも人影は見られない。
初犯の万引き、そのスリルを遥かに凌駕するスリル・・・・・・スカートの、裾から、右手を忍ばせた。暗がりを這う細い指。自身の手だというのに、レギンス越しだというのに、内腿に触れただけで喘いでしまう、未だ敏感。上がっていく、上がっていく、上がっていく・・・・・・やがて、股。
レギンス越しとはいえ、ショーツの濡れ具合ぐらいは分かる。大丈夫、思ったより濡れていない。エスプレッソをこぼした程度。
胸を撫で下ろし、事ここに至ってようやく自覚する、己の痴女ムーブ。
『何をしているの、私!?』光の速さでスカートから右手を抜く。『トイレで確認すればいいじゃない!』
自分に、びっくり。16年、気が付くことのなかった、変態淑女の素質。しかし、気が付いたところで何になるというのか? 認めるわけがないのだ、己の変態を。16歳の女の子だぞ? 認めるわけがない。
『あの手紙の魔力で、おかしくなっただけなんだ、私』半分トゥルー、半分フォールスであった。『私は、変態じゃない』
読むだけで性感責めを味わわされる、爆発物並にデンジャラスな、手紙。まるでガチのスタンド攻撃、遠隔自動操縦型みたいなものだ。
今すぐ焼き捨てろ! なんて正論は、通じない。当然だろう、愛する恋人から初めてもらった手紙なのだ。一生の宝物は確定している。
毛深い女は情が深いと言ったが、あれは嘘だ。毛深さと情の深さは必ずしも比例しない。その証拠に、ムダ毛はおろか埋没毛さえ見当たらない浜辺が、立ち上がり、歩き出し、ゆっくりとではあるが確実に、放り投げた手紙との距離を縮めていく。情を取るか理を取るか、そんな二択なんて成立しない、情を取る一択。
暗い色のアスファルトに純白を垂らしたかのような、地表を隠す手紙の端はひらひらと揺れ、趣は楽園の蛇だった。それでは自然と、浜辺の趣もエバとなる。エバ逃げて、蛇よ! そんな声は彼女に届かない。志村後ろ後ろ! ではないのだ。コメディショーではないのだ。
いつの間にか、吹奏楽部の奏でる曲がベートーヴェンの交響曲第9番に変わっていた。キューティーハニーからの緩急よ。くどいくらいに演出が決まっている。
手紙までの距離が、20センチメートルを切った。屈んで、手を伸ばせばゲットできる距離だ。フライングゲットすら必要ない。けれど、躊躇だ。ここに来て、躊躇。そりゃそうだ。読めば笑い死に寸前まで追い込まれたり、電マに取り囲まれたりする手紙だ。躊躇しないほうがおかしい。
未だに、女性ホルモンは過剰に分泌されている。だからこそ到達する、母の心境・・・・・・5歳の愛しい我が子が転んでしまって、泣いている。「ママ! 転んじゃった! だっこして!」と泣き叫んでいる。今すぐ駆け寄って、だっこしてやりたい。けれど、そこに愛はあるんか? この子は来年には小学生になるのだ。よく見てみると、膝を擦りむいてすらない我が子、怪我の可能性は皆無。昼の散歩を始めてまだ2分、体力の問題も皆無、昨夜は9時間寝たし、1時間前に1時間の昼寝もしたし、朝食も昼食も栄養バランスの良いものを完食したのだから。ようするに、我が子には、だっこして欲しさに転んだ振りをした疑いがあるのだ。というか、転んだ振りをしたのだ。「ママ! だっこしてくれないと、僕、死んじゃうからね!」と脅しまでかけてくる、我が子。これ以上甘やかしてしまったら、とんでもないモンスターに育ってしまうかもしれない。だけど、だけど、かわいい! かわいくて、かわいくて、たまらない! だっこしてあげたい! してあげたいけど、しない。しないわ、私。愛しているからこそ、しない・・・・・・それに似た、心境。手紙に対する浜辺の、心境。読んでやることが愛情とは限らないのだ。ましてや、手紙の後半、未読部分は十中八九、イアーセックスの謝罪が書かれている。それをホイホイと読んでやって、そこに愛はあるんか? そこにあるのは愛ではなく、自己満足ではないのか?
「私と花井くんの、自己満足」
ここに、恋愛の深淵を覗く。深い、深いぞ、チャレンジャー海淵より深い。喜び、怒り、悲しみ、性感、思いやり、全て、自己満足なのだろうか? 偉大な人類学者、ハンスケカミナンデス・ドストエフ・トルストイック(1839年~1939年)が提唱した通り、恋愛と恋愛シミュレーションゲームは等しいのだろうか? セックスとオナニーが等しいように? 分からない。分からないから、恋愛だ。
だるまさんが転んだ、そのプロプレイヤーが醸し出すような、オーラ。浜辺、まるで彫像、ぴくりとも動かない、動いたら死ぬとでも言いたげだ。その姿勢はそのまま、迷いの現れ。
こんなランナーの逸話がある。八王子市からスタートし、ノンストップで走り続け、バンテリンドームナゴヤを右手に更に走って、名古屋城の前まで来て足を止めた途端、とんでもない恐怖に襲われたという逸話だ。走っている最中は、恐怖なんて微塵もなかったというのに。この逸話と恋愛は、よく似ている。花井くん大好き! という気持ちだけで走り続けていた最中は、何も怖くなかった。しかし、他の女で善がる花井を目撃して生じた不信、および手紙に記されているであろう浅ましい謝罪に対する不信で、足が止まってしまった。そうなれば恐怖の餌食、恋愛関係の脆弱を認識してしまう。恋愛関係には、血縁関係のような証明がない。恋愛関係には、利害関係のような拘束力がない。恋愛関係には、友人関係のような利便性がない。全て、自分と相手の気持ちのみで成り立つという、恋愛関係。この圧倒的な脆弱である。怖い。怖くて、当然。今すぐにでも終わらせてしまえるラブストーリー、怖すぎ。
立ち止まってしまえば恐怖、しかし立ち止まることにもメリットはある。自分の気持ちを見詰め直すことが出来るのだ。そうして自覚したのは、怒り。
薫子への憎しみも、嫉妬する自分への嫌悪も、全ては真実を覆い隠すためのベールでしかなかった。浜辺は、怒っていたのだ、花井に。他の女から与えられる快感を拒否せず、むしろ受け入れた花井に、めちゃくちゃ怒っていたのだ。
「許せない」
ハートが女のエンジンならば、言葉は女のガソリンだ。口にしてみて更に強まる、怒り。
手紙なんて、謝罪なんて読んでやらない! そう決心した、刹那に、吹き抜ける強い風。
手紙が、舞った。そうして、浜辺、無意識に、手紙をフライングゲット。
結局、好きなのだ。どれほど腹立たしくても、どれほど許せなくても、好きなのだ、結局。
好き、それに理が及ぶ余地はない。理は言っている。花井と別れろ、と言っている。けれど、浜辺は絶対に別れないのだ。これは友達の恋愛相談と同じ現象である。散々愚痴を零したのち、「別れたほうがいいのかなぁ?」と言った友達に、「そんな酷い人とは別れたほうがいいよ」と理を以て言ってやって、なのに友達ときたら、「だけど好きなんだよね」と言って絶対に別れないのだ。同じだ、丸っ切り。
手紙の、酷く折れてしまった部分を、両手を使って、優しく伸ばしてやる。正しく、愛であった。そうして、愛とは、愚。しかし、愚とは、美。
浜辺は、美しかった。
許せない、という気持ちは消えていない。その気持ちを消し去りたくて、消し去ってくれることを願って、浜辺は手紙の続きを読んだ。
そんな大好きな浜辺さんに、僕は今日、酷いことをしてしまいました。
耳で絶頂しそうになったのです。
あろうことか、大好きな浜辺さんの目の前で、絶頂しそうになったのです。
許されざる大罪だと、理解しています。
浜辺さん、ごめんなさい。ごめんなさい。
だけど、信じてください。
痴女に耳を犯されている間も、僕は浜辺さんだけを思っていました。
体は汚されてしまったけれど、心は汚されていません。
浜辺さんを好きになった日から、僕の心はずっと、浜辺さんの物です。
浜辺さん。お願いします。どうか、どうか、僕にチャンスをください。
手紙ではなく、会って、謝罪するチャンスを僕にください。
大好きなんです。大好きなんです。浜辺さんが、大好きなんです。
校舎の裏にある、ポンプ小屋で待っています。
浜辺さんが来てくれるまで、ずっと、ずっと、待っています。
許せない、という気持ちは、消えなかった。痴女に耳を犯されて、と花井は書いたのだ。謝罪をしている分際で被害者面である。これを正義感の強い浜辺は良しとしない。拒んでよ! と心で叫ぶ。力で押さえつけられていた訳ではないし、拘束されていた訳でもないし、100パーセント抵抗できる状態だったんだから、拒んでよ! とハートで叫ぶ。これだけでもストレスMAXだというのに、花井が文面で犯した過ちは被害者面だけではない。言うに事を欠いて、絶頂しそうになったと、花井は告白したのだ。他の女で、絶頂しそうになったと。これを独占欲の芽生えた浜辺は良しとしない。墓まで持っていってよ! と心で叫ぶ。絶頂しそうになったという事実は、あなたしか知らないことなのだから、墓まで持っていってよ! とハートで叫ぶ。
百年の恋も冷めるとはよく言ったものだ。浜辺も、ほら、ビンビンになっていた感度がすっかり下がっている。比例して、女性ホルモンの分泌量も下がっているぞ。やはり、言葉なのだ。くどいようだが、言葉が大事なのだ。感度から心まで、言葉で全てが決すると言っても過言ではないのだ。現に浜辺は、言葉で冷めた。
軽はずみが過ぎた、花井潤。何から何まで自業自得な、花井潤。しょうがないさ、初めての恋愛だもの。初めてイコール失敗は摂理だ。さあ、失敗を引きずらないで、次の恋を探そう・・・・・・そんなふうに考えていた時期が、筆者にもありました。
なんということでしょう!? 浜辺娃、手紙を破り捨てず、懐にそっと仕舞った! 超高級なハンカチを仕舞うみたいに!
驚くべきことは、まだ続いた。バッグを手に取った浜辺が、校門ではなく校舎の裏に足を向けたのだ。その足取りには、明確な意思がある。間違いない、浜辺はポンプ小屋に向かっている!
結局、好きやねん。好きやから、どんな愚行も許容してしまうねん・・・・・・何? 同じことばっかり言ってるじゃねぇかって? しょうがないじゃないかぁ! これが恋愛なんだから、好きってことなんだから、しょうがないじゃないかぁ! 筆者は真実を書いているだけです!
兎にも角にも、浜辺はポンプ小屋へと向かう。許してはいない、許せる自信もない、だけど、ポンプ小屋へと向かう。大好きな花井が、そこで待っているから。