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忘れざる 第二章 伊藤

 第二章 伊藤

 小学生の頃、私を爽太と呼んだ同級生は伊藤だけだった。他の同級生はみんな、私のことを鈴木、あるいは鈴木から作ったあだ名で呼んでいた。
 私と伊藤は雑木林に作った二人だけの秘密基地で多くの時間を過ごした。廃品置き場からくすねてきた物のみで作った秘密基地は一か月のうちに何度も補修が必要だった。梅雨にはしょっちゅう屋根のブルーシートがひしゃげ、ござ敷きの内部を不快に濡らした。そんな場所が、私と伊藤にとって唯一の拠り所だった。

 「なんで爽太は俺と友達なんだろう」ある日、伊藤が言った。秘密基地で、飛び回る蚊を払いながら。「ずっと疑問に思ってた。だって、俺と爽太って違うじゃん」
 私は脈絡もなく切り出された真剣な問いに困惑して、顔を隠すように漫画雑誌を開いた。
 「爽太って、勉強もできるし、優等生たちと仲が良いし、先生に怒られたこともないじゃん。俺は勉強できないし、爽太以外の友達はみんな馬鹿だし、先生にいっつも怒られてるじゃん」
 道で拾った漫画雑誌はあちこち破れたり湿ったりしている。
 「みんな自分と似ている奴としか仲良くなんないのに、俺たちって、不思議だな」
 俺たちは親に愛されていないところが似ているんだ。そう言いかけて、私は声を噛み殺した。
 しょっちゅう伊藤を殴っている父親のこと、そんな父親のところに伊藤だけを残して蒸発した母親のこと、それらは下品な田舎町に知れ渡っていた。
 「暑いし、蚊がすごいし、どこかの屋内に避難しようぜ」
 ごまかしのためだけに発せられた私の声を、伊藤は受け入れた。
 「どこかの屋内って、どこだよ」
 「図書館とかはどうだ」
 「やだよ、漫画がないから」
 「漫画を持ち込めばいいじゃん」
 「前にそれやって、図書館員にめちゃくちゃ怒られた」
 「スーパーとかは、どうよ」
 「先週、一時間くらい店の中をうろうろしてて万引きを疑われただろ。懲りろよ」
 閉じ塞がった世界にいて、それなのに、私たちは声を出して笑えた。
 「暑くなければ野外でもいいじゃん」伊藤が言った。「川の近くに行こうぜ。涼しいし、蚊もいないっぽいし」
 「水辺は蚊が増えるよ」
 「泳げばいい。水の中なら蚊も入ってこないだろ」
 「どの辺に行くんだ」
 「源流に近いところまで行こうぜ」
 「今から山に入ってくのは嫌だな」
 「麓のところまででいいさ」
 秘密基地に乗り付けていた自転車へまたがり、漕ぎ出し、土くれの道をがたがたになって進み、道路に出て、山へ向かって走った。
 道中、鈍足な農機を追い越しざまに伊藤が、のろまの亀頭野郎、と叫び、農機を運転していた中年の男が、止まれクソガキ、と叫び返した。
 私と伊藤は必死になってペダルを漕ぎ、息も絶え絶えになりながら大笑いした。そのまま速度を緩めずに走り続ける。風を切り裂くたびに涼が生まれ、蒸れた髪と衣服を慰めてくれた。
 度胸試しの全速力で岩だらけのごつごつした足場に突っ込み、自転車が倒れた。私は右の膝を擦りむき、伊藤は左の膝を擦りむいた。もう目的地に辿り着いていた。
 パンツ一枚の姿になって川に飛び込む。繁吹きが周囲の新緑に染まり、陽光に照らされ、緑のプリズムと化した。
 「泳いでる奴もいない、釣り人もいない、貸切じゃん」へその辺りまで水に浸かりながら伊藤が言った。浮き出たあばら骨が水面に心許なく映っていた。
 冷たい水は擦りむいた膝を一度だけ刺して、後はずっと、優しく包んでくれた。
 潜って川底を浚うと名前も知らない魚が飛び出してきた。その魚を追いかけて泳ぎ、次第に無心へと帰っていく。無心であることが私を癒した。無心であることでしか救いがないのだと知った。
 「パンツが流された。爽太、取って」
 伊藤の大声で私は我に返った。伊藤の視線をなぞっていくと下流へ漂っていく伊藤のパンツが見つけられた。
 川の流れは穏やかで、つかまえるのに苦労はしないパンツだったが、私と伊藤は事の決着を先延ばしにし、長く、できるだけ長く、パンツを追いかけ続けた。
 私がとうとうパンツをつかまえると、伊藤は礼を言い、そのパンツを頭にかぶって、ふざけた。自分はパンツマンだ、と言い、私を笑わせた。
 「爽太、見ろ」 
 急に真顔を作った伊藤が指差した空を私は見上げる。イカルの群れが涼に釣られてやってくる。清潔な空気に映えた壮観。小学校四年生の、夏休み最終日だった。

 始業式の日、伊藤は学校を欠席した。二学期についてを記したプリントを伊藤の家に持っていく役、私はそれに志願した。
 伊藤の家の外観は何度も見たことがある。褐色に錆びたトタンの平屋。男物の衣服が常にぶら下がっている物干し竿。散らばったゴミ同然の物、物、物。おんぼろの車におんぼろの自転車。孤独な赤い郵便受け。
 伊藤の姿は、孤独な赤い郵便受けの下にあった。前日にはなかった痣が伊藤の右目を押しつぶしていた。
 私は大きめの声で伊藤を呼んだ。
 伊藤は私の姿を認めると、「大きな声を出さないでくれ、親父が家で寝てるんだ」と言って、私に近寄り、膝から崩れた。
 抱きとめた体は火のように熱かった。
 「俺の家で休もう、伊藤」
 「秘密基地でいい」
 「あんなところじゃ休まらないよ」
 「俺みたいなのが家に上がり込んだら親に怒られるだろ、爽太」
 「なんだよ、それ。そんなわけないだろ。大体、親なんて俺に無関心なんだから、泥棒だの殺人犯だのを連れ込んだって気にしないよ」
 「なんだ、そうだったのか。気を使ってきて損した」
 私は伊藤の体を支えながら自宅への帰路を急いだ。晴天が道路を焼き、風も吹かず、汗が纏わりついた。伊藤の疲弊が増すたびに、私の体に預けられる重さも増していった。私は自分のランドセルを道に投げ捨てて、少しだけ身軽になって、必死に歩いた。
 広々とした田園風景に人の姿はまばらで、孤立していて、頼りもなく、私たちの歩は弱々しく進んだ。
 自宅に辿り着く。自室に布団を敷き、そこに伊藤を寝かせ、扇風機の風を当ててやった。熱を計ってみると三十九度もあった。
 「昼飯、食べるか、伊藤。昨日の残りだけど」
 「大丈夫、いらない。水だけで充分」
 伊藤はコップ三杯目の水を飲み干し、眠りに落ちた。
 私は一人で昼食を済ませた。後は居間で本を読んで過ごした。読書に集中できず何度も自室へ飲み物を運んだが、安堵に満ちた寝顔を見るたび、掛けようとしていた声は失われた。
 夕方になって、私は晩御飯を用意した。ほうれん草の入った味噌汁、ジャガイモとソーセージのソテー、炊き立ての白米。
 帰宅したばかりの父と母に尋ねる。
 「友達が来てるんだ。体調を崩してて、俺の部屋で寝ている。そいつに晩御飯を食べさせてあげたい。一人分、多めに作ったから、持っていっていいかな」
 父は無表情で頷いた。母は嫌な顔をして、どうぞ、と言った。
 「俺も自分の部屋で食べるつもりだけど、いいかな」
 その声には何の反応も返ってこなかった。
 二人分の晩御飯を盆に乗せる。「なんだ、そんなに持っていくのか」と、食の細い父が言った。私はそれを無視して自室へ向かった。
 伊藤は目を覚ましていた。畳んだ布団に尻を乗せて、足を伸ばして座っていた。熱は三十七度四分まで下がっていた。手当の仕方が分からなかった右目の痣だげが何も変わらないままだった。
 「今、何時だ、爽太」
 「夜の七時を過ぎたとこ」
 「俺、帰るよ」
 「飯、食ってけよ」
 「帰る」
 「早く帰らないと、親父さん、怒るのか?」
 伊藤は俯いて、口を結んだまま笑った。そうして、居間から聞こえてくるテレビの下品な笑い声よりも小さな声で、食べてくよ、と言った。
 蛍光灯の白けた光に照らされる荒れた畳、その上に並べられた粗末な食器、それを囲む少年が二人。
 「これ、爽太が作ったんだろ。すごいよ、学校の給食よりも美味い」
 笑顔が作られるたびに、明るい声が発せられるたびに、早く帰すべきだったのではないかと私の不安は強まった。
 完食して少し横になった後、伊藤は帰宅した。街灯のない夜に、恐怖の色も見せず消えていった。

 翌日、登校した伊藤は同級生の男子を殴った。殴って倒した相手に馬乗りになって何発も殴った。殴られた男子は泣き喚き続けたが、伊藤の無情は揺り動かなかった。
 過去に何度かあった伊藤の暴力、そのどれよりも遥かに陰惨な暴力。制止する私の声は、恐怖に支配され、友へ投げかけるものではなかった。
 教師が伊藤の首をつかみ、思い切り放り投げた。伊藤は木製の床に背中を強打した。その暴力が、一つの暴力を終わらせた。
 どうして殴ったのか、という問いに、むかついたから、という答えがあった。教師は激怒し、伊藤のこめかみを殴った。痣がないほうの目に涙が溜まるのが見えた。
 それ以降、伊藤は頻繁に人を殴るようになった。いつだって衝動で人を殴った。同級生、上級生、下級生、男子、女子。伊藤が殴らなかったのは、私と大人くらいのものだった。
 家で父親に殴られ、学校で人を殴り、教師に殴られる、子供。平和なはずの日本の田舎町で、暴力は日常的にあった。

 「昨日、オープンカーを見たぜ。スーパーの前の道路を走ってた。成金和尚のボンボン息子がデブな女を乗っけてさ。猿と豚に真珠だって、笑っちまったよ」
 秘密基地で、伊藤が言った。伊藤は冬休みだというのに薄い生地の長袖一枚に短パンという格好だった。
 「マツダのロードスターだろ。俺も見たことあるよ。豚は乗ってなかったけど」
 「めちゃくちゃかっこいい車だよな」
 私の学友たちは皆、私と伊藤の交際を強く否定するようになっていた。父親と教師からの伊藤への暴力を当然の報いと断じる彼等は、学校や家庭から寵愛を受けながらも、伊藤と同じく歪み、それでいて安穏の住人だった。
 学校で伊藤と距離を取りつつあった私を伊藤はどのように思っているのか。その不安はずっと私の頭の中にあり、恐怖を生んだ。それでも、私が伊藤と秘密基地で時間を過ごしたのは、初めての友達に対する情、それに準じたからだった。
 土に返りかけていた落ち葉が木枯らしを浴びて舞い上がった。色の薄いコオロギがござの上で絶命した。高いところにある太陽はゆっくりとしか動かない。
 家でのことも、学校でのことも、何一つ、伊藤は口にしない。忘却こそが唯一の望みである少年は、冗談を言い、朗らかに笑った。直視するには余りにも痛ましい有様だった。
 私はとうとう伊藤から目を逸らして、遠くに立つクヌギを見やった。そうして、唖然とした。徒党を組んだ男子が五人、秘密基地に向かって歩いてくる。二学期の終業式の日に伊藤に睾丸を蹴り上げられた六年生が先頭を歩いていた。他の四人も六年生だった。
 「便所以下の住みかだな、ここは。お前みたいな貧乏ネズミにぴったりの場所だよ、伊藤」
 憎悪を隠さない声で六年生が言った。
 伊藤は表情を失い、俯いた。
 ブルーシートの屋根の下から引っ張り出される私と伊藤。
 「脚を開けよ、肩幅くらいにさ。でなきゃ、金玉を蹴り上げらんないだろ」
 両膝をくっつけて縮こまるように立つ伊藤に向かって六年生が言った。
 伊藤が口を動かす。声は聞き取れなかった。
 「聞こえねえよ」
 六年生が伊藤の胸倉をつかんだ。
 「嫌だ」
 伊藤が言って、六年生が殴った。胸倉をつかまれたまま殴られたから、伊藤の長袖はへそのあたりまで破れた。
 「嫌だじゃねえだろ、くそが!」
 倒れた伊藤を六年生が三人がかりで踏みつける。肉と骨が痛めつけられる音、落ち葉が散り散りになる音、伊藤の泣き声、それらが私の耳を切り裂いた。
 「こいつはどうすんの」
 伊藤を踏みつけていない二人が、立ち尽くす私を指差して言った。
 「しばけ!」
 怒声が響いてからすぐに、私は後頭部を殴られ俯せに倒された。
 何度も背中や尻を踏みつけられる。私の泣き声は六年生たちの罵声と笑い声に掻き消された。
 気が済むまで私と伊藤を痛め付けた六年生たちは、秘密基地を破壊し、漫画雑誌を手に持てるだけ強奪し、罪悪感の影もなく、談笑しながら去っていった。
 伊藤は股を両手で抑えながら泣いていた。鼻血を出し、唇も切っていた。
 私も泣いていた。しかし、外傷はなく、体の痛みも弱かった。消極的な二人に攻撃されたからだろう。それでも、恐怖は私の心を八つ裂きにして、傷め続けた。
 「あいつら、エロい漫画だけ持っていきやがった」先に調子を取り戻したのは伊藤だった。「ブルーシートもござもびりびりだ。刃物を持ってやがったんだな、あいつらは」
 太陽が雲に隠れて、冷えた。
 私はジャンバーを脱ぎ、それを伊藤の方に投げた。
 「着ろよ」
 「爽太が寒いだろ、いいって」
 「寒くない。まだ二枚も着てるから」
 「悪いって、いいよ」
 「汚いへそを見せつけてるほうが悪いよ」
 伊藤は破れた長袖を脱ぎ捨て、ジャンバーを着た。
 「秘密基地、どうするか」伊藤が私に問いかけた。
 私は言葉を詰まらせた。伊藤が寂しそうに笑った。
 「作り直そう」私はその言葉を外側へ絞り出し、後悔の重しを内側に隠した。
 私たちは自転車で廃品置き場へと向かう。途中、自販機を見つけるたびに自転車を停め、自販機の下を探った。そうして貯まったお金を使って缶ジュース一本を買った。二人で半分ずつ飲み、それが飲み終わるころにはもう廃品置き場だった。
 「その内、足の踏み場もなくなるぞ、ここ」伊藤は缶だの瓶だのが散乱しているところに向かって空き缶を投げ捨てた。
 モラルのない処理業者が疾うに放棄した廃品置き場は、なおも人間社会の排泄を食らい続け、膨れ上がっていた。
 ひどく破れている物、得体のしれない液体や固体にまみれた物、がびがびに固まっている物、そういった不良なブルーシートは多く見つけられた。ござは一つも見つからなかった。畳が何畳か見つかったが、とても自転車で運べる品ではなかった。
 「地面に敷くやつもブルーシートにするしかないな」
 「あの冷蔵庫の下に敷いてあるブルーシートは奇麗なんじゃないか」
 伊藤が指差したところにある冷蔵庫は大型だった。二人がかりでどうにか冷蔵庫を動かし、手に入れたブルーシートは、傷も汚れも少ない薄手の物だった。
 「こいつは屋根に使おう。後は地面に敷く厚っぽいやつを見つけるだけだ」
 空が雨を含む。目当ての物は一向に見つからない。
 「ちゃんと探せよ、さぼんな」
 足を止めている伊藤に向かって言う。返事はなかった。
 伊藤に近寄って、伊藤の足元にあるぼろぼろのバスタオルを見下ろした。目をつぶった子犬がくるまれていた。
 「死んでるのかと思ったら、生きてるんだ、こいつ」伊藤が言った。
 「かわいそうだな」
 「秘密基地で飼えないかな」
 雨が降り出す。世界が灰色に染まる。
 私たちは自転車にまたがり、走り出した。私の自転車の荷台にはブルーシートが一枚。伊藤の自転車の前かごには子犬が一匹。
 「雨が強くなってきやがった」
 伊藤は子犬に雨があたらないよう体を前のめりにしながら自転車を漕ぎ続けた。
 自転車に乗ったまま雑木林へと入り込む。秘密基地があったところまで素早く移動する。破損したブルーシートの屋根を外す。新しく持ち込んだブルーシートを広げ、その四隅を縄でもって四本の木に結びつけ、長方形の屋根を作る。
 「これで雨は凌げる」伊藤は子犬を抱きながら屋根の下に入った。「こいつ、どんどん呼吸が弱くなってる」
 「家からなにか持ってくるよ、牛乳とか食い物とか」
 私は一人、自宅へ急いだ。自転車のチェーンが上げる悲鳴を聞いた。冷気が風に乗って暴れた。濡れた道路が蜃気楼と化した。雨粒の一つ一つが雹みたいに痛かった。
 自宅にて、冷蔵庫からソーセージ一本と牛乳を取り出し底の浅いボウル一枚と一緒に自転車の前かごへ突っ込んで、来た道を帰った。
 秘密基地の屋根の下、伊藤は子犬を抱いたままで、とても優しい顔をしていた。上半身は裸で、私が渡したジャンバーを子犬の毛布代わりに使っていた。
 私はボウルに牛乳を注いだ。伊藤はボウルの近くに子犬を下ろした。
 子犬の鼻がひくひくと動いた。鼻先を牛乳の水面に持っていき、十秒くらい制止した。それから、大人しい舌の動きが白い波紋を作った。子犬の小さな喉を牛乳が通過するたびに、汚れた茶色い体は剥き出しの灯火を隠していった。時間をかけて、ボウルは空になった。
 ソーセージを口元に持っていく。短い警戒の後、子犬はソーセージにしゃぶりついた。母の乳に甘える素振りに似ていた。
 「俺、やっぱり地面に敷くやつを探してくる」伊藤が立ち上がった。
 「また廃品置き場に行くのか。今日はもう止めとけよ。雨が強すぎる」
 「敷物がないと、こいつ、体が痛くなっちゃうかもしれないだろ。爽太はこいつを見ててくれ。俺一人で行ってくるから」
 上半身が裸のままで出ていこうとする伊藤を呼び止め、私は厚い長袖を脱ぎ、それを投げて渡した。
 「ありがとう」
 湿った冬の木々に反響したその声は、純粋だった。
 薄着で震える上半身をさすりながら、私は伊藤の帰りを待った。隣の子犬はソーセージにしゃぶりついたまま眠っていた。鳥のさえずりすら掻き消す雨音に夜が張り付いていった。
 そうして、真っ暗闇。
 「爽太、居るか」
 伊藤の声が聞こえた。秘密基地に向かってくる自転車の輪郭もうっすら見えた。
 「ライトも荷台もぶっ壊れてるおんぼろ自転車だから、ハンドルと体の間に挟んで持ってきた。おかげで何回も転んじまったよ」
 厚手でサイズも大きいブルーシートを伊藤は地面に放り投げた。
 私は自分の自転車を横向きに倒し、ペダルを手で漕いで前照灯を光らせた。その明かりを使って、伊藤はブルーシートに異物が付着していないのを確認し、濡れている部分を拭った。
 屋根の下に敷いたブルーシート、そこに子犬を置いて、伊藤も腰を下ろした。
 「ソーセージ、嫌いなのかな、こいつ。まだ食べきってないなんて」
 「ずっと寝てるからだよ。起きたらきっと食べるよ」
 「屋根の下に来いよ、爽太」
 「もう帰るよ、夜だし」私は自転車を起こした。「お前は帰んなくて、大丈夫なのか?」
 「こいつの様子をもう少しだけ見てから帰るよ」伊藤は子犬の頭を撫でた。
 私は自転車にまたがった。
 「牛乳とボウル、置いてくから、飲むようだったら飲ましてやって」
 伊藤の了解の声を背中に受けながら、私は自宅に向かって漕ぎ出した。
 暗闇を進む中で、私は自身の疲弊を知った。冷え切った体が震えだした。自宅に着いた時、ぼろ雑巾みたいな体と心は露だった。
 びしょ濡れの髪をタオルで拭き、服を着替えてから、忙しい音が聞こえてくる台所へ向かった。
 「約束が違うでしょう、爽太」食事の用意をしている母が言った。「お母さんが仕事の日はあんたがご飯を用意することになってるでしょう」
 私は口を結んだ。煮立った味噌汁が香る。その香りだけで、味噌汁の濃すぎる味付けが知れた。
 「お母さんが毎日のように働いていて、大変だな、とは思わないの、爽太。家事ぐらいきちんとやってあげよう、っていうのが思いやりなんじゃないの。お父さんは家のことなんて何にもできないんだから、あんたがやってくれなきゃ、お母さんが一人でやるしかないの。働きすぎて、死んじゃうわよ、お母さん」
 母は私の姿を視界に入れた。
 「そういえば、牛乳とソーセージがなくなっているんだけど、あんた、どこにやっちゃったの」
 「知らない。父さんが飲み食いしたんじゃないの。いつもご飯が少ないって文句を言ってるしさ」
 「ご飯が多いと、俺が少ししか食べれないの知ってるだろ、って文句を言うくせに」
 居間でテレビに見入っている父に向かって、母が怒鳴った。
 「母さん、一つ聞きたいんだけど」私は俯きながら、言った。「犬って、飼えるかな、この家で」
 「餌のお金は?」
 母が言った。父がテレビの笑い声に合わせて笑った。母が父に罵声を浴びせ、私は黙って晩御飯の用意を引き継いだ。

 冬の寒さが増していくにつれ、子犬は快活さを取り戻していった。ポチと名付けられた子犬は、毎朝、私と伊藤を秘密基地で出迎えてくれた。伊藤によく懐き、伊藤の命令であればお手の真似事までするようになった。
 ポチが生きている証、雑木林を散歩して、おしっこをして、うんちをして、食べ物を食べて、飲み物を飲んで、吠えて、尻尾を振って、眠る。その全てが、傷だらけの私たちを癒していた。
 ポチの飲食は伊藤が持ってきた一枚の千円札で賄われていた。僅かな硬貨しか持ったことのなかった伊藤がどうやってその千円札を用意したのか聞いてみると、父親の財布から盗んだ金だ、という答えが返ってきた。伊藤の声にも顔にも悪意の欠片すらなかった。恐怖の欠片すらなかった。私はそれを容認した。
 「学校が始まっても、これからもずっと、俺はこいつを守っていくよ」
 ポチが可愛く吠えて、伊藤は微笑んだ。
 穏やかな伊藤は、私を安堵させた。

 冬休みが終わり、三学期が始まる。学校での伊藤は相変わらず暴力の加害者であり被害者であった。
 学校で、伊藤は悪友たちと時間を過ごし、私は真っ当とされる学友たちと時間を過ごした。それでも、放課後や休みの日には二人で秘密基地に行き、ポチの世話をして、馬鹿なことを言い合って、笑い合えた。

 三学期が始まってから二週間が立ったころ、私は体調を崩して学校を休んだ。
 一人きりの自宅で、ずっと布団に横になったままで、寂しさの冷水が私の熱を冷ましてゆく。高熱がありながらも家の外で座っていた伊藤を反すうし、自分はまだ恵まれているほうだと思い込み、慰め切れない感情を慰めた。
 夕日に移ろふ陽光が部屋に差し込む。晩御飯の用意をしなくてはと、だるい体を起こす。
 台所に行き、そうして、何にも手が付かなかった。
 私は一声、叫んだ。
 着替えて、外に出て、自転車に乗って、走り出す。秘密基地に向かって。
 雑木林は薄い紅色に染まる。命の春はまだ遠い。侘しい空気を、恐ろしい怒声が切り裂き、かわいそうな悲鳴が儚く散った。
 私はクヌギの木に隠れて、伊藤とポチを見た。伊藤は、何度も、何度も、ポチを地面に投げつけて、叫び続けていた。ポチは地面に叩き付けられるたびに泣いて、逃げようとして、やがて、動かなくなり、泣かなくなった。それから、伊藤は叫ぶのをやめ、ほうけた顔で、ポチを見下ろした。
 「ポチ」伊藤が声を出した。「ポチ」
 伊藤はポチに触れて、軽く揺すった。
 ふらふらの足取りで去っていく伊藤の背中に、はっきりと、罪が見えた。それは、私の目にも焼き付いた。
 私はポチに近づいて、触れて、死に圧倒された。呼吸が詰まった。血が凍った。
 私は自宅に戻り、シャベルを持って、また秘密基地へ戻った。
 名前も知らない木の下に穴を掘った。そこにポチを埋めた。涙が溢れた。秘密基地での最後の時間だった。

 翌日、学校で、私と伊藤は口先だけの挨拶を交わした。伊藤と私、逃げるように目を逸らしたのはどちらが先か、覚えていない。

 伊藤が学校に来る日は徐々に少なくなっていった。五年生の途中からは完全に学校に来なくなった。やがて、少年院に出たり入ったりを繰り返している少年たちと伊藤が連んでいるという噂が囁かれ始めた。そんな伊藤を気に掛ける人間は一人もいなかった。私でさえ、伊藤とはもう赤の他人だった。