関取の立ち合いにおいて発生する衝撃力は、2トンに達すると言われている。これを単純計算すると、関取一人当たり1トンの衝撃力を有することになる。それでは、諸星の投じたストレートによって漢咲のこめかみに生じた衝撃力は如何ほどのものだったか? 関取100人分である。言わずもがな、100トンの衝撃力である。
共感力、というものがある。これは人類を人類たらしめる能力である。個体差はあれど、人類は大なり小なり共感力を有する。自称サイコパスでさえ、共感力を完全に排することはできない。だから、時速160マイル超えのビーンボールを目撃した全員が、漢咲の死を肌感覚で推察するのは必然だった。鳥取県選挙区代表の面々は唯々愕然として、漢咲の、立ち尽くしたまま微動だにしない様を見詰めた。
漢咲だけでなく、諸星もまた微動だにしていなかった。投球を終えた直後の体勢のまま、絵画のように。そのなかで瞳だけが、散漫な光を放ち、蠢いていた。
大事な人のために、親方のために投げた瞬間は、罪というものに鈍感でいられた。しかし今、停止した球と微動だにしない漢咲を交互に見やるうち、罪は心臓の重量が増すという実感となって、その増量は錯覚なれど実感となって、正常な心を強く苛んだ。
じきに震え出して、ガチガチ、ガチガチと、諸星の歯は悲しく鳴った。
「審判! 漢咲は死んだ!」下劣がベンチでふんぞり返りながら叫んだ。「これで鳥取県選挙区代表のメンバーは8人だ! 試合続行不可能! 俺様の高知県選挙区代表の勝利だ!」
主審が、漢咲の顔を覗き込んだ。瞳孔の開き具合を確認しようというのだ。そうして、健康な縮瞳が、正常な視線となって絡み合い、主審は、小さな悲鳴を上げた。
漢咲が動き出すと、今度は下劣が小さな悲鳴を上げた。
「生きてる!」真田が叫んだ。「生きてるぞ、漢咲さんは!」
主審がデッドボールを宣告した、刹那に、楽境はダッグアウトを飛び出し、漢咲のそばまで行った。
「頭を見せとくれ、漢咲くん」
言われて、漢咲は頭を楽境に預けた。
「たまげた・・・・・・」触診しながら、楽境が流したのは汗ではなく冷や汗だった。「あれほどの球をまともに受けながら、脳も、骨も、皮膚さえもが、ノーダメージじゃ」
「石頭なんです」漢咲は笑った。「楽境さん、ありがとうございます」
一塁ベースへ向かう漢咲を見送り、楽境は狐につままれた心持ちのまま、ダッグアウトに戻った。
「怪我は、なかったのですか?」
戻ってきた楽境に、大原が尋ねた。
「ノーダメージじゃった」
楽境が答えて、大原は苦笑いを浮かべた。
「漢咲さんが無事だったのは良かったとして・・・・・・」海原が言った。「次のバッターは哲さんっすけど・・・・・・」
三塁側ダッグアウトに居る全員が、真田に、真田の股間に注目した。そうして、驚愕。少し前までタヌキみたいだった股周りが、今ではすっかり人間の趣に戻っている。
「そんなものなのですか、真田さん」生粋のインドアである蟹江が、言った。「強打した股間というものは、こんなにも早く腫れが引くものなのですか?」
「俺のは特別仕様だ」真田はニヒルに答えた。「デカくなるのもミニになるのも速いのさ」
「それじゃあ、完治したってことなんすね、哲さん!」
「おうともよ、清ちゃん。バリバリの100パーセントだ」
この発言には、多分にやせ我慢が含まれていた。確かに、腫れは引いた。しかし、睾丸は未だに激痛を抱えている。それをおくびにも出さないメンタリティは、偏に、若さ故の過ち、不良時代の無限ブラフで培ったものだった。
バットを片手に、ダッグアウトを出る。歩を踏むたび、吐き気を催すほどの痛みが脳に上がってくる。それでも、歩は微塵も緩まなかった。
一塁ベース付近では、狩谷が熱視線を真田に送っていた。
「痛みに耐えるおじさん・・・・・・愛おしくなっちゃう」狩谷は、熱視線の先を漢咲に動かした。「そう思わない、漢咲さん?」
「悲しいかな、サディズムは人の本質です」漢咲の声には僅かな色さえなかった。「そうして、それに抗うのが人の進歩です」
「つまらない男」狩谷はため息をついて、それから、自身の細長い手指を舐めた。「けれど、やっぱり、そそる」
「分かっているな、狩谷!」ダッグアウトから身を乗り出して、下劣が叫んだ。「プレイが再開されたら、即、漢咲を殺すんだぞ! 日本国のため、日本国民の義務として、粉骨砕身、全身全霊、滅私奉公、命をかけて、国賊漢咲を殺すんだぞ! 最強の戦闘民族、日本人の力を見せろ、狩谷!」
「強い言葉は恐怖の現れ。彼の言葉はそのまま、彼が小心者であることを表している」興をそがれて、狩谷の表情は艶を失った。「僕が漢咲さんに手も足も出なかったこと、もう忘れているみたい。理もない徳もない、あるのはノリと勢いだけ。正に政治家だね、彼は」
黒土でさえ日光を照り返す、夏のアフタヌーンであった。無風で、レフトスタンドに降り立ったクロツグミが、僅かな日陰に隠れた。
過剰に、マウンドを掘って、諸星のスパイクはもう真っ黒だった。汗を拭う素振りは素振りでしかなく、乾いた汗は粘着物みたいに纏わりつく。小声で悪態をついて、諸星はマウンドを掘り続けた。
真田が、バッターボックスに入った。
主審がプレイをコールして直ぐ、漢咲は二塁に向かって歩き出した。
「いってらっしゃい」初な新妻みたいにして、狩谷は小さく手を振った。「やだ、男の人を見送るのって、快感。主婦に向いているのかも、僕」
「どうして戦わない、狩谷!?」下劣が叫んだ。「戦え! 戦え! 戦え!」
クロツグミが大空に羽ばたいた。
狩谷は恍惚として、漢咲との新婚生活を夢想した。
「畜生め! 防衛副大臣候補であるこの下劣杉男様の命令を、どうして聞かないんだ!? 狩谷、この非国民が!」
むなしい叫びが轟くなか、漢咲は歩き続けた。そうして、二塁ベースのそばまで来て、足を止める。二人の大男が塁間に仁王立ちしているからだ。
「そうだ。高知県選挙区代表にはこいつらがいたのだ」動揺をあっという間に過去にして、下劣は笑みを浮かべ、呟いた。「泣く子も黙る悪太(あくた)兄弟がいたのだ。狩谷のようなひょろひょろした軟弱者など、端から必要なかった。あの双子であれば、確実に、漢咲を殺せる」
悪太兄弟は、漢咲を見下ろしながら、極太な腕をぐるぐる回した。
「数夜(かずや)。このチビ、俺がもらうぜ」悪太兄弟の片割れが言った。「良いスーツを着てやがる。脳天を叩き潰したら、すぐに横にして、血が付かねぇようにしなくちゃな。そうして、メルカリよ。それなりのインセンティブになるぜ」
「ふざけるなよ、竜夜(たつや)。俺の物だ、このチビは」数夜が言った。「俺のほうが綺麗に殺しが出来る。それに、メルカリのアカウントは俺のだ」
「おいおいおいおい、こういうのは普通、お兄ちゃんに譲るものだろう?」竜夜は腕を回すのを止め、数夜に顔を寄せた。「年功序列が、人の道ってものだろう?」
「おいおいおいおい、お兄ちゃんは俺だろう。また酔っぱらっているのかい?」
数夜も腕を回すのを止め、竜夜と真正面から向き合った。一卵性双生児、写し鏡が如き絵面。
どちらが兄でどちらが弟であるかは、悪太兄弟だけでなく、彼らの両親さえ知らぬところだった。それは、子供たちに対する100パーセントの無関心によるもの。そんな家庭環境が、悪太兄弟の人格を形成する核となっていた。
「俺の名をいってみろ!!」竜夜が激怒した。「竜夜、だろ! た、つ、や! お兄ちゃんの名前だろう!」
「それしか言わねぇなぁ、お前はよぉ!」数夜も激怒した。「たつやはたつやでも、達也じゃねぇ、竜夜だ、お前は! お兄ちゃんじゃねぇ、パチモンだ、お前は!」
そうして始まる、殴り合い。岩石みたいな拳が音速に近い速度で何度も交差する。それは、兄弟喧嘩の域を超えた殺し合いだった。
「仲間割れ、っすよね?」ダッグアウトで、海原が言った。「っていうか俺たち、なんで今まであんな目立つ奴らに注意が向かなかったんすかね?」
「神の無計画、でしょうか」優崎が言った。「無神論者の私が言うのも可笑しな話ですが」
「何にしたって、すごい体だ」野球のスカウトが有する類の目を、真田は悪太兄弟に向けていた。「目測だが、身長は3メートルを超えている。そうして、体重は300キロオーバーだ。こいつらは良い長距離砲になるぞ」
「まるで北斗の拳だ」蟹江が首を横に振った。「この令和の時代に世紀末だ」
「悪太兄弟・・・・・・」
「彼らを知っているのかね、大原くん?」
「日本の警察に属する人間で、悪太兄弟を知らない者はいません」楽境の問いに答える。「彼らは、十歳で両親を殺害し、以降、ありとあらゆる犯罪行為に手を染めてきた、特別指名手配犯です。その余りの凶暴さから、ヤクザはおろか半グレからも敬遠され、どこにも属さないが故に居所を掴めなかったが、まさか公私宴に出場していたとは・・・・・・」
「殺し屋の次は特別指名手配犯っすか」海原は天を仰いだ。「どうなってるんすか、この国の選挙は」
相も変わらず強い日差しで、鹿児島県産の黒土はフライパンよろしく、内野の全てを容赦なく熱した。そんな環境下で、エンドレス暴力という、暴挙。殴っては殴られ、殴っては殴られ、殴っては殴られ・・・・・・お互いに半裸であっても、体の熱は高まり続け、兄弟ともに、もう汗だくだった。
「いつまで仲間割れをしているつもりだ、悪太兄弟!」しびれを切らして、下劣が声を上げた。「漢咲を殺したら報酬を倍、払ってやる! だからさっさと、漢咲を殺せ!」
「聞いたかよ」デカい拳が、鼻先で止まる。「数夜」
「倍だってよ」デカい拳が、鼻先で止まる。「竜夜」
道徳を得るジーフィーを与えられることなく生きてきた。教養を得るジーフィーを与えられることなく生きてきた。そうした人間の拠り所は、金、それだけである。悪太兄弟もまた、例外ではなかった。
デカい拳の骨を鳴らしながら、悪太兄弟は漢咲に歩み寄った。
「見てみろ」真田が冷や汗をぬぐった。「兄弟そろって、殴り合いで出来た痣がもう消えてやがる。人間離れした回復力だ」
ごくり、という海原の唾を飲み込む音が響いた。
タトゥーは入れていない。故に、その上半身は横綱のような神々しささえ湛えている。しかし、上半身の上に鎮座する顔は、邪悪そのもの。双子の心は、今、完全にシンクロしていた。金のために人を殺す、そこに罪の意識は、ない。
「俺がこのチビを羽交い絞めにする」と竜夜が言って、間髪入れず数夜が、「そしたら俺がこのチビの顔面をたたき潰す」と言った。阿吽の呼吸による会話であった。
満18歳であった。悪太兄弟はまだ、精神面において大人と子供の狭間にある年齢だ。未来があるべき存在、そんな二人の荒み切った様に、漢咲は、深く、深く深く、頭を下げた。
「命乞いかよ」と竜夜が言って、「無駄だよ」と数夜が言った。
「野党のクズに相応しい無様だな、漢咲!」下劣が笑った。「天下の沈没党に逆らったらどうなるか、ようやく分かったようだ! しかし、もう遅い! 国滅同義総理の偉大な政策に異を唱えた、貴様は万死に値する! 殺せ、悪太兄弟!」
竜夜が漢咲の背後に回り、両脇に両腕を通し、首の後ろで両手をがっちり組んだ。後は上体を起こしてやれば羽交い絞めの完成だ・・・・・・起きない! 深く頭を下げている、漢咲の上体が起きない! 体重300キロオーバーの大男が引き上げようとしているのに、起きない!
竜夜は、力んだ。これ以上ないってくらい、力んだ。両腕だけでなく、全身の血管まで浮かび上がるくらい、力んだ。しかし依然として、漢咲の上体はぴくりとも動かない。まるで天岩戸だ。
「遊ぶなよ、竜夜」ため息をつきながら、数夜は言った。「倍の報酬を得て、クラブを貸し切って、それから幾らでも遊べばいい」
「遊びじゃねぇ・・・・・・」既に竜夜が流す汗は、冷や汗に変わっていた。「これ、ガチンコのやつ・・・・・・」
ようやく、数夜は状況を理解した。彼の汗も冷や汗に変わった。
「君たちに良い社会を与えてあげられなかったこと、謝らせてください」深く頭を下げたままで、言った。「ごめんなさい。ごめんなさい」
大人に謝られるという初体験に、悪太兄弟は激しく動揺した。
『ずっと、子供のころからずっと、大人たちは俺たちを蔑んできた』竜夜と数夜は同じことを思った。『最近の子供はコミュニケーション能力に欠陥があるとか、運動能力が低いとか、IQが低いとか、散々俺たちを蔑んできた、大人たち。酷い社会を作った、ジジババ世代。酷い社会をそのまま残した、氷河期世代とゆとり世代とZ世代。そんなクズどもが、偉そうに、俺たちα世代を蔑んできたんだ。ずっと、ずっとだ。搾りカスの社会を俺たちに押し付けたくせに、ずっと。奴らは俺たちのことなんざこれっぽっちも考えたことがない。いつだって、自分、自分、自分。そうして、ジジババ世代は勝ち逃げして、氷河期世代は心を失ったモンスターのままで、ゆとり世代は無痛コンテンツから帰ってこず、Z世代は未だにタイパとコスパ以外ない。俺たちα世代は、被害者。大人たちの、クズな人生の、被害者。謝られて当然、しかし、俺たちに謝ろうなんて大人は、今の今まで一人だっていやしなかった。こいつは、この漢咲という大人は、一体、何なんだ? 分からない。分からないけれど、他の大人たちとは違うってことだけは、分かる。不思議だ。不思議と、心が安らぐ。ああ、これが、安心、ってやつなのか。初めて、知った』
救いは、あった。謝られたからといって何が変わるわけでもない、けれど心は、少しだけ救われた。しかし、悲しいかな、未知との遭遇には恐怖が伴うもの。そうして恐怖は、理知を奪う。
芽生えた情は、恐怖によって呼び起こされる怒りで刈り取られ、後には元々の、荒野みたいな心持ちだけが残った。
「ごめんなさい、じゃねぇんだよ、このウジ虫がぁ!」竜夜は叫んだ。「てめぇら大人は散々好き勝手やったんだ! だったら今度は俺たちが好き勝手やる番だぜ!」
「全部、奪ってやる!」数夜も叫んだ。「てめぇら大人のものは全て奪ってやる! 金も、土地も、権利も、命も、全て奪ってやる!」
「これ以上、君たちが邪悪に染まることを看過しない」閉じていた漢咲の目が、大きく開かれた。「だからこそ、押し通る!」
羽交い絞めからの脱出手段に、自身の踵で相手の脛を攻撃する、というものがある。痛みに耐えかねた相手が自ら羽交い絞めを解く、それを狙った手段だ。
漢咲は、自身の踵を竜夜の脛に向かって高速で動かした。しかしそれは、正攻法にあるような、相手に痛みを与えることを目的としたものではなく、ブラフであった。
真に迫ったブラフで、竜夜は自身の脛が粉々に砕ける未来を幻視した。必然、羽交い絞めを解き、後方に大きく飛び退く。
自由になった漢咲は、すぐさま、数夜の懐に潜り込んだ。そうして、腰を掴み、体重300キロオーバーの体を軽々と持ち上げる。危険な高い高いスタイルだ。
体を持ち上げられるも、数夜には反撃する手段が複数あった。そのうちで、漢咲の腹部を蹴る、という手段が最も簡単で効果的だ。喧嘩慣れしている数夜は、当然、それを理解している。理解していて、しかし数夜は、身じろぎ一つせず、呆然と、少しだけ恍惚した顔で、空を見詰めた。
高い高いをされたことなんて、今まで一度もなかった。持て余す。育まれることのなかった童心の、脈打つ憧憬を持て余す。
『俺は、愛されたかったのか・・・・・・』
そんな思考にふけっている以上、抗うことなど出来ようはずがなかった。それは、漢咲に身を委ねたのと同義。
バービー人形を扱う少女みたいに、漢咲は数夜の体を扱った。丁重に、丁重に、高い高いスタイルから別のスタイルへと移行する。左腰を右手で掴んだまま、左手は数夜の顎にそっとそえる。そうして、水平にした数夜の体を、高い高いよりも更に高く持ち上げる。重量挙げに見るフィニッシュスタイルだ。
この異常事態に至ってさえ、和也は思考にふけったままだった。
「人は、いつからでも、どこからでも、やり直せる」
言うや否や、漢咲は槍投げに似たステップを踏み、数夜を投げ飛ばした。
数夜の体は、瞬く間に、南西の空へと消えた。
「てめぇ! よくも数夜を!」
叫んだ竜夜の懐に、素早く潜り込む漢咲。そうして、危険な高い高い。
さすがは一卵性双生児、竜夜は数夜と全く同じリアクションを示した。必然、すんなりと重量挙げに見るフィニッシュスタイルへ移行する。
「君は、君たちは、必ず、やり直せる」
言うや否や、漢咲は槍投げに似たステップを踏み、竜夜を投げ飛ばした。
竜夜の体も、瞬く間に、南西の空へと消えた。
鳥形山石灰石鉱山は、読んで字のごとく、石灰石の採掘地である。高知県吾川郡仁淀川町に位置するこの場所に、小松悠真(こまつ ゆうま)は居た。
小松は20歳、日雇いで採掘を行う労働者だ。貧困により高校進学を断念し、中卒で働き始めて早5年。鳥形山石灰石鉱山で働き始めてからは3年になる。採掘作業は過酷を極め、賃金も安いが、他に仕事はない。彼は唯、毎日、心を無にして働いていた。
「6年前のよ、2028年までは、ここの仕事も今とは違っていたのさ、小松さん」一日のうち唯一の休憩時間、昼の20分休憩の時間に、隣で弁当を食べていた同僚の中年が、言った。「2028年に、鳥形山石灰石鉱山の採掘権が下劣グループの下劣鉱業有限会社に移った。そこからは、地獄さ。設備は全部取っ払われて、採掘から運搬まで全ての作業を人力で行うことを強いられるようになっちまった。それで給料は下げられちまってるんだから、たまったものじゃないよな、小松さん」
『知るかよ』小松はさっさと弁当を平らげ、中年から離れた。『俺がここで働き始めたころには既に地獄だったんだから』
徐に、空を見上げた。どこまでも広がる空。露天掘りが夢の跡、坑内掘りにシフトして久しい鳥形山石灰石鉱山。休憩が終われば、またしばらくは見られなくなる空を、小松の視力11.0の目は映し続けた・・・・・・そうして、それは映った。北東の方角から飛来する、デカい何か。最初、小松はそれをドローンだと思った。けれど、それが人型であることを目視できるようになると、考えを改めた。
「親方!」近くに居た現場責任者に、小松は声をかけた。「空からデカい男が!」
「馬鹿言ってるんじゃねぇ、小松!」一蹴して、現場責任者はスマホに顔を近付けた。「休憩は終わりだ! 野郎ども、坑内に戻れ!」
飛来したデカい男は、山陰に隠れて、見えなくなった。自分が今いる場所からそう遠くない所に着陸しただろうと、小松には予測できた。
もう一度、空を見上げた。北東の方角・・・・・・そうして、それは映った。今度は最初から、デカい男が飛来したのだと理解できた。
飛来する二人目も山陰に隠れて、一人目と同じ所に着陸したことが、小松には分かった。
「親方! また空からデカい男が!」まだ近くに居る現場責任者に、小松は声をかけた。「飛んできて、山の向こうに落ちたんです! 救助に行かないと!」
「小松! 働きたくないからって、馬鹿言ってるんじゃねぇ!」
その怒声を浴びた瞬間、職場への不満がキャパシティを超えた。過酷なばかりの労働にも、愚痴ばかりの同僚にも、怒鳴るばかりの現場責任者にも、うんざりだ! だから、小松はヘルメットを投げ捨てて、山陰のほうへと駆け出した。
「小松! この野郎、戻ってこい!」現場責任者が叫んだ。「ノルマを達成できなければ、俺も減給だ!」
いい気味だ、と小松は思った。荒んだ日本の職場にあっては3年以上ともに働こうとも情は芽生えないのだと、示す一例であった。
現場責任者の叫びを追い風にして、小松の足は速まり、直に、採掘地区を抜けた。途端に、世界はホワイトからグリーンへと色を変える。露出した岩肌と豊かな森林が同居する鳥形山石灰石鉱山ならではの変化であった。
生い茂る草木で視界も足元も悪くなった。それでも、過酷な坑内労働で鍛えた方向感覚と体力から、速度は緩まない。進む、進む、進む・・・・・・。
『俺の人生みたいだ』進み続けながら、小松は思った。『先が見えなくても、悪路であっても、進み続けるしかない、俺の人生。本当は、進学して、AIエンジニアになりたかった。けれど、お袋が死んじまって、俺が兄弟たちを養わなくちゃならなくなった。だから、働いた。低賃金だろうが重労働だろうが何だろうが、働いて働いて働いて働いて働いてきた。地獄だった。心を殺してきた。それも、限界だ! デカい男が二人も空から降ってきた、それを助けもしないで、見て見ぬふりをして、そこまで自分の心を殺したりはしない! 俺は労働力という名のマシーンじゃねぇ! 俺は人間だ! 陽葵(ひまり)、湊(みなと)、翠(すい)、陽翔(はると)、ごめんな! 明日から当分、朝昼晩と三食もやしのスープだ! けど、兄ちゃん、またすぐに新しい仕事を見つけるから! 仕事なんか全然ないけど、闇バイトに手を染めてでも金を作るから、辛抱してくれな!』
そうして、開けた場所に出た。人の手によるものではない、自然発生した小さな草原だった。
一か所に、ニホンジカが八頭、集まっている。何かのにおいを嗅いでいるようだ。近付いて、八頭が散開して、小松は悲鳴を上げた。
それは地表の犬神家の一族であった。すなわち、頭から股までが地面に突き刺さり天に向かって大きく開かれた逆さ足である。それが二人分である。小松はもう一度、悲鳴を上げた。
パニックは数秒で落ち着いた。落ち着いたら後は早い、あっという間に逆さ足の二人を掘り出してやる。
「間違いない。空から降ってきた二人のデカい男だ」
掘り出した二人を寝かせてやって、二人とも呼吸しているのを確認して、小松は安堵の息をはいた。この二人が、特別指名手配犯、悪太兄弟などとは知りもせずに。
「凶悪な体をしているくせに」お花に話しかけるみたいにして、両目を閉じた悪太兄弟に話しかける小松だった。「優しい顔、してるじゃん」
徐に、悪太兄弟が全く同じタイミングで目を開いた。
「ここはどこ?」ハーモニーを超越したハーモニーを、悪太兄弟は奏でた。「私は誰?」
こうして、天空の鉱山に隠された財宝をめぐる大冒険が始まった。しかし、それはまた別の話・・・・・・。
公私宴球場は沈黙に包まれていた。圧倒されていたのだ、漢咲の力に。
全員が、悪太兄弟の戦闘力が尋常でないことを理解していた。ある者はその体格から、またある者はその滲み出る気念の総量から、理解していた。明らかな猛者、そんな兄弟があっという間に空の彼方へと投げ飛ばされた、事実。そこに、恐怖はなかった。唯、畏怖があった。
「聞いてないぞぉ。俺は、聞いてないぞぉ」顔面蒼白になりながら、下劣は言った。「漢咲がこんなに強いなんて、秘書も官僚も、誰も教えてくれなかったぞぉ」
下劣は、物心ついたころから弱者を虐げてきた。そうして、下劣家の長男という立場にあっては目に映る全てが弱者だった。誰もが、金の力の前に跪いた。誰もが、下劣グループの強大さの前に跪いた。誰もが、胡麻家の親族という威光の前に跪いた。故に、36年間生きてきて恐れを知るジーフィーは皆無。故に、ビッグマウス。怖いもの知らずで、公私の場を問わず大国への喧嘩腰を通してきた下劣を、支持者たちはこう呼んだ。日出ずる国の喧嘩番長、と。喧嘩なんて、したことない。当然だ。喧嘩もクソもないままに、全員が跪いてきたのだから、当然だ。それでいて、マッチョな通り名を冠し、いい気持ちになって、ビッグマウスは加速した。そうして今では、次期防衛副大臣最有力候補である。増長は、既に極まっていた。恐れという概念の存在しない人生によって・・・・・・それが今日、恐れを知った。個の戦闘力などという、歯牙にも掛けたことのない力に対する、恐れ。唐突に、体の内側が痛んだ。肥満気味ながらも健康体、けれど痛んだ。少しして、胃が痛むのだと思い至った。しかし、それがストレスによるものだとは、思い至らなかった。ストレスさえ、初体験だったから。
下劣は、地団駄を踏んで、こみ上げてくる漢咲への罵詈雑言を吐き出そうとした。しかし、声帯が委縮してしまい、ビッグマウスはかなわなかった。
漢咲が、再び歩き出した。二塁を踏み、三塁を目指す。
近付いてくる漢咲に、中山はたじろいだ。後退る。後退って、意図せず腕時計が腰を擦り、ハッとする。プロトレック、息子が初任給でプレゼントしてくれた物だ。
鎮火寸前だった闘志が、再燃した。自分より遥かに強い相手、だから何だ! 息子のためなら、俺は何だってやる!
腰を落とし、踏ん張って、気念を練る。そうして具現した気念のマサカリを、中山は握りしめた。
「無鉞(エアマサカリ)」
柄の長さは2メートルジャスト、刃渡りは1メートルジャスト、正しく巨大なマサカリであった。しかし、特筆すべき点はその形状ではない。エアでありながらも有する物理法則、これこそが無鉞の真価である。エアギターの類とは異なる、リアルに存在する事象、それでいてエアというファンタジー。ファンタジーだが、間違いなく、切れる。その切れ味は、並の日本刀を遥かに凌駕した。
中山は、静かな動作で、気念のマサカリを構えた。直径1メートルオーバーの樫に対する類の構えだ。一方の、漢咲。巨大なマサカリを目視しながらも、歩を止めない、緩めない。
すんなりと、漢咲は中山の間合いに入った。
躊躇なく、中山はマサカリを薙いだ。瞬く間に、刃は漢咲の左上腕に触れた。
左上腕切断間違いなし、場合によっては胴までをも切断する・・・・・・そう考えるのが自然なシチュエーションだった。それ程までに、中山の攻撃は強力だった。しかし、空を舞ったのは漢咲の肉体ではなく、砕け散った刃だった。
エアの刃が砕け散るという、カオス。中山の闘志が、陰った。
「ノーダメージ!」真田が叫んだ。「野郎、漢咲さん、ノーダメージ!」
事実であった。事実、漢咲の左上腕には切り傷すら出来ていなかった。
相も変わらぬ歩で三塁を踏み、呆然と立ち尽くす中山に会釈して、漢咲はホームに向かった。
まるで室戸岬の急潮だ、と井口は思った。歩み寄ってくる漢咲に対する評価である。個人に対する評価としては最大級の畏怖だ。
井口は、藁にも縋る心持ちで、一塁を見やった。そうして、戦意の欠片もない狩谷を認め、一人で止めるしかない、と腹を決めた。
「諸星さん! 俺に球をくれ!」
井口の声で、諸星は掘り続けていた足を止めた。過剰に掘られたマウンドは、幼児が凝り性を発揮した砂場の様相を呈していた。
「急いでくれ!」
求められるままに、諸星は球を投げた。
球をキャッチャーミットでキャッチし、井口は漢咲を真っすぐに見詰めた。
『既に俺の気念のテリトリーに入っている!』井口から漢咲までの距離は、4メートルを切っていた。『マル暴の嗜み(ヤクザスタイル)、そのテリトリーに!』
マル暴の嗜みとは、今はなき4課に所属経験のある刑事のうち約30パーセントが習得したとされる気念の技である。井口は、その約30パーセントに含まれていた。
マル暴の嗜みの発動条件は二つ。一つ目の条件は、対象が気念のテリトリー内にいること。このテリトリーの範囲は使用者の気念の力量によって個人差があり、大体3メートルから5メートルといったところ。二つ目の条件は、対象の扁桃体が恐怖と不安に支配されていること、すなわち、対象がビビっていること。この二つの条件を満たし、マル暴の嗜みが発動したならば、対象の身体能力および気念を扱う能力は著しく低下する。
『マル暴の嗜みさえ発動すれば、漢咲をアウトにするチャンスはある!』井口は懐に手を入れた。『ビビらせるなら、これ以上の手はない・・・・・・』
4課の刑事は、見た目がヤクザよりヤクザ、と揶揄されてきた。しかし彼らは、マル暴の嗜みを発動させるために敢えて恐ろしい身なりをしてきたにすぎない。決して、断じて、ファッションセンスに欠陥があったわけではないのだ。そんな4課も夢の跡、若さ故の過ちであったパンチパーマに白スーツという出で立ちは、今の井口からは想像すらできない。洗練されている。今の井口は洗練されたファッションセンスを披露している。まるでインテリヤクザだ。そんな井口がどうやって漢咲をビビらせようというのか? その答えは、井口が懐から抜き出したレンコン、すなわち銃であった。
銃を目にしてビビらない人間はいない。俺は銃を見たくらいじゃビビんないっすよ、と嘯いた読者のあなた、もうやめましょうよ!!! 中坊みたいな見栄を張るのは、もうやめましょうよ!!! ビビる! どんなタフガイだって、銃を見たらビビる! それが真理!
20年も刑事をやっていれば、真理を目の当たりにするのは一度や二度じゃない。井口は過去、893人もの強面が銃の恐怖に屈する様を目にしてきた。その度にマル暴の嗜みを発動し、赤子の手をひねるが如く、強面たちに手錠をかけてきた。今回も同じだ、と井口は思った。過去の現場と同じだ、と。だから、漢咲の目が銃に向いたのを見て取った瞬間、井口は気念を発したのだった。
『よし! マル暴の嗜み発動・・・・・・しない!?』
しない、であった。マル暴の嗜み発動しない、であった。驚愕、である。井口驚愕、である。
漢咲は、確かに銃を認識していた。しかし彼の扁桃体は平静そのもの、波紋のない水面のよう。それは足取りにも露わで、歩は速まりも緩まりもせず一定の速度を保ち、井口との距離を詰めていった。
井口は、銃口を漢咲に向けた。ヒグマに対するような、本能による動作だった。
人に銃口を向けるのは、初体験。過去、必要に迫られたことがなかったからだ。パンチパーマに白スーツで、大抵の強面はマル暴の嗜みの餌食になった。ファッションでビビらない強面は、銃を見せればマル暴の嗜みの餌食になった。それが、井口が知る強面の全て。その実体験に裏付けされたリアルが崩壊して、銃口の先は果てしなく遠くに感じられた。
『銃口を向けられたんだ! 今度こそ、漢咲はビビっているはずだ!』自らに強く言い聞かせ、井口は冷静を取り戻した。『よし! マル暴の嗜み発動・・・・・・しない!?』
再びの不発に、取り戻したばかりの冷静は霧散した。後はもう半狂乱になって、リボルバーの引き金は過剰なまでに軽かった。
連載初期の中川巡査を彷彿とさせる発砲だった。すなわち、無慈悲かつ無秩序な乱射である。
放たれた六発の弾丸は、全て、漢咲の五体をかすめ、レフトフェンスに風穴を開けた。
弾が尽きてさえ引き金を引き続けて、ようやく半狂乱から脱し、井口は、相も変わらず歩み寄ってくる漢咲から銃口をそらした。
『マル暴の嗜みを試みるまでもなく、分かる。漢咲は、発砲されてさえ、微塵もビビっていない』銃口は、既に地面を向いていた。『ヤクザよりも肝が据わっている。こんなカタギがいるのか・・・・・・』
漢咲が脇を通る。球を握ったキャッチャーミット、その左手を少し動かすだけで触れられる距離で、しかし井口は、微動だにできなかった。数多の強面をビビらせてきた彼が、この時だけは、ビビる側だった。
漢咲は、厳かに、ホームを踏んだ。そうして、真田とハイタッチし、三塁側ダッグアウトに向かった。
最初、ダッグアウトは静まり返っていた。畏怖が尾を引いていたのだ。けれど、歩み寄ってくる漢咲の表情が、停学明けの根は優しい高校生みたいであることを認識した途端、芽生えた同情が畏怖を心の隅に追いやって、鳥取県選挙区代表の面々は、沸いた。
「凄かったっす!」ダッグアウトに迎え入れ、海原は漢咲とハイタッチした。「強すぎるっす、漢咲さん!」
「感服です!」優崎も漢咲とハイタッチする。「勝てますよ、この試合!」
「3点リードじゃ!」楽境も漢咲とハイタッチ。「このままワンサイドゲームじゃ!」
漢咲が胸を撫で下ろしたのが分かって、その繊細さが戦闘能力の高さとのギャップで際立ち、鳥取県選挙区代表の面々は心底、和んだ。
調子に乗った海原が、紙コップ一杯分の水を漢咲の背中にぶっ掛けた。瞬間、優崎たちは強張ったが、漢咲が嫌な顔一つせず、むしろ朗らかに笑ったから、すぐにまた和んだ。
『連中にはプライドがねぇのか?』はしゃぐ大人たちを横目に、皆野はベンチに浅く腰掛けながら拳を強く握りしめた。『漢咲の力を、自分との差をまざまざと見せつけられて、悔しくねぇのか、腑抜けどもが』
一通りはしゃいで、歓喜の輪を外れた漢咲は、皆野の真ん前に立ち、右手を差し出した。
「君のホームランに感化されて、格好をつけました。君が居てくれたからこその3点です」
漢咲の声には、嫌味など微塵も含まれていなかった。
タッチあるいは握手を求めている右手、それを、皆野は左手の甲で強く払った。
敵意丸出しで拒絶され、しかし漢咲は微笑んだまま、慈しみに満ちた瞳を皆野に向け続けた。