クーラーボックスから取り出すと、アイスバッグは瞬く間ににじんだ。急いで、奥のベンチ、日陰で横たわる真田のもとへアイスバッグを運ぶ優崎。そうして、躊躇なく、中年の腫れ上がった睾丸を冷やしてやる善意100パーセント。呻きがダッグアウトに木霊した。
「大丈夫。安静にして、冷やしておけば良くなります」野戦病院で聞こえるような、祈りに似た優崎の声。「3回の守備には間に合います」
「守備では遅い。この攻撃中に間に合わせなくちゃならねぇ」野戦病院で見られるような、覚悟ガンギマリな真田の顔。「俺まで打順が回る」
睾丸の熱が融解を速めた。ユニフォームパンツに染みが出来た。
「おもらしみたいだ」
その自虐は、優崎に届かなかった。既に彼の意識は、右打席へと向かう皆野に向けられていた。
熱。夏の、熱。亜熱帯化して久しい本州の、熱。地の白い、東北の血が流れる皆野の肌に汗の玉が浮かぶ。
「未来! 無茶をする必要はないことを忘れるな! 1点リードしているんだ!」
熟知している皆野の性格から、そんな言葉が何の意味もなさないと分かっていて、それでも大原は自重を訴え続けた。
「大事にされているな、君」右打席に入った皆野に、井口が話しかけた。「彼の言う通りだぞ。バットは振るな。怪我では済まん」
弱者として扱われる、それは自尊心を有する者にとって最大級の侮辱。腸が煮えくり返るシチュエーション、しかし皆野は、クールを微塵も乱さなかった。その理由は、集中力にある。NPBの選手が有する類の、集中力。野次、鳴り物、全てを無に帰す集中力。これを、皆野は発揮していたのだ。彼は今、何も聞こえていない。彼は今、ピッチャーだけを見ている。彼は今、球をバットでしばき倒すことしか考えていない。自尊心など、機能する余地はない。
「野郎、初球で決めるぞ」上体を起こして、真田が言った。「初球で決められなくちゃ、負けだ」
現代人の集中力は8秒しか持続しない、という調査結果がある。これは金魚に劣る持続時間だ。皆野も真田も、知識としてではなく本能で、それを知っていた。そこに考えが至らなかったのが、高知県選挙区代表のバッテリーである。だらだらとあの手この手で投球を先延ばしにする、という有効な策を用いず、さっさと球を放ってしまう、愚行。侮っていたのだ。ガタイは良くても子供の顔、そんな皆野を侮っていたのだ。
インハイ気味の160マイル、ストレート。皆野、フルスイング。磁石もびっくり、引かれ合う球とバット。
完璧なタイミングは、不完全なバッティングフォームによるマイナスを帳消しにして、強力なインパクトを球に与えた。
ポップコーンの弾けるような音が轟いて、後はもう、直角三角形の斜辺みたいな打球がバックスクリーンに突き刺さるまで時間はかからなかった。
ゴジラを見つけて騒ぐ人類は、恐らく存在しないだろう。ゴジラを見つけたら、圧倒され黙するのだ、人類は。この日、高知県選挙区代表は、鳥取県選挙区代表は、公私宴の審判団は、ゴジラを見つけ、黙した。皆野未来という、14歳のゴジラ。
ポーカーフェイスにハンドポケット。走らない、己にとってベストな歩幅、速度で歩く。完璧な打球を放った者にのみ許される、貸し切りランウェイ。急かすことを許さない。揶揄も許さない。ホームベースを踏むまで、俺が王様だ。
そうして、ゆっくりと、ホームベースを踏んだ。
ダッグアウトに戻ってくる皆野に、鳥取県選挙区代表の面々はかける言葉を見つけられず、ゴジラは実は人間だったと理解してなお黙し続けた。唯でさえ、理解の及ばぬ14歳、令和生まれ、俗にいうアルファ世代のリーサルウェポン、異文化交流の壁がある。称賛してよいものか、はしゃいでよいものか、判断がつかない。慎重にならざるを得ないシチュエーション、そこに一石を投じたのは、真田だった。まだ腫れのひかない睾丸に鞭打って、立ち上がり、皆野の真ん前まで歩いて行って、アイスバッグで濡れたユニフォームパンツを誇示し、「ほら、見てくれ。お前さんの打球にびびって、ちびっちまった」と笑顔で言い切ったブレイブハート、あるいはライオンハート。この万死に値する所業、ゼット世代にすら嫌悪される昭和生まれのノリが、皆野に響くはずがなく、必然、下ネタはナチュラルなスルーによって無かったことにされた。
ドカッ、と大きな音を立ててベンチに座る皆野。真田は、侘しい微笑を浮かべ、奥のベンチで再び横になった。
「手を見せてみろ」大原が、皆野の隣に座り、言った。「未来」
最初、ハンドポケットを固辞した皆野だったが、大原の険しい眼差しに音を上げ、結局、手を出した。骨折していることが明らかな、腫れた両手。
「ほっとけば治る」
「馬鹿を言うな」14歳の無茶を嗜める大原。「楽境さん、治療をお願いします」
すぐに楽境がそばに来て、その温厚な顔に、皆野はしぶしぶ手を差し出した。
「手の骨が折れとるが、見た目ほど酷くはない」触診しながら、楽境は言った。「皆野くん。お前さんは、手に気念をためる訓練を積んどったのかね?」
「さっきのが初めてだ」
『たまげた』楽境の頬を冷や汗がつたった。『同じ初めてでも海原くんより遥かに怪我の程度が軽い。大原くんと同じ程度の怪我じゃ。それだけ、気念のコントロールが上手くできておる』
有機で追肥による治療が始まる。
1分足らずで、皆野の両手は完治した。
「ありがとうございます」頭を下げることさえしない皆野に代わって、大原が礼を言った。「ところで、楽境さん。有機で追肥は、あと何回、使えますか?」
「一日十回が限界じゃ」穏やかな表情が、陰った。「そうして、今ので七回目じゃ」
鳥取県選挙区代表に戦慄が走った。
「ペース配分、間違ってるじゃないっすか!」海原が悲鳴に似た声で言った。「まだ3回の表で、残り三回って!」
「海原さん、声を静めて」蟹江が言った。「高知県選挙区代表に聞かれるのは不味い」
「他に、治癒の気念を使える方はいますか?」
大原の声に、首を縦に振る者はいなかった。
「いのちだいじに、ですね」優崎は努めて明るい声を出した。「大丈夫、2点リードしているのですから。ここから試合終了までは、怪我のリスクを負う必要はない」
「それも、そうっすね」海原が、楽観に乗っかった。「それに、次の打者は漢咲さんだし、実質、3点リードみたいなもんっすしね」
その漢咲はというと、既に右打席に立っていた。しかし、プレイは再開されていない。高知県選挙区代表の面々がマウンドに集まっているからだ。マウンドの中心で怒を叫ぶのは、下劣。
「とんでもないことをしてくれたなぁ、諸星!」のどちんこが飛び出しそうな勢いで、怒鳴る。「2失点だぞ、2失点! クズども相手に、2失点! この沈没党青年局局長、下劣杉男様のチームが、クズども相手に2点ビハインドだぞ!」
口だけじゃない、手や足まで飛び出す怒り100パーセント。気念の込められていない打撃など肉体的にはノーダメージだが、精神的には十分ダメージがある。心に60口径の弾丸を撃ち込まれるが如き苦痛だ。憎悪をぶつけられるとは、かくも苛烈なものである。諸星が心身ともに委縮するのも無理はない。
「お心を静めてください。まだ試合が終わったわけではありません」
「黙っていろ! 役立たず!」井口の静止を一蹴し、なおも諸星を詰める下劣。「おい、どうするんだい!? 2失点の責任を、どうやって取るつもりなんだい!?」
「これ以上の失点は、0にします」風前の灯火みたいな声だった。「全力を、尽くします」
「無理だろぅ、お前じゃぁ!」渾身のローキックを放ちながら。「漢咲はおろか、訳の分からないガキにさえホームランを打たれるお前じゃぁ、無理だろぅ!」
「抑えてみせます! 命にかけて!」
その場しのぎの言葉ではない、魂の叫びだった。しかし、そんなハートによるコミュニケーションを理解できるだけの良心を、下劣に求めるのは無理な話だった。
下劣は、その名が表すとおりの笑みを浮かべた。
「命にかけて、って言ったな。それは、なんでもする、っていうのと同義だよな」
クレイジーの気配が、あった。台風の前触れ、それこそ色濃い朝焼けより明白な予兆で、高知県選挙区代表の面々は固唾を飲んだ。
下劣は、諸星に跪くよう指示した。従う諸星。そうして、その形の良い耳に、醜悪な唇が、近付く。
「漢咲の、頭に、当てるんだ。お前の、全力のストレートを」下劣のささやきだった。「野郎、格好つけてノーヘルだ。地球上で最も硬い物質である公私宴の球をくらったら、一溜まりもねぇ」
「殺せ、と言うのですか?」諸星の顔から血の気が引いた。「俺に、野球で、人を殺せと?」
「他に何があるっていうんだい!?」耳元で怒鳴る暴挙。「なんでもするって言っただろ、お前!」
鼓膜よりもプライドが痛んだ。野球人として、否、人としてのプライド。ビーンボールで人殺し? 冗談だろう。
諸星は、弱々しくも、首を横に振った。
「そういう反抗的な態度をとるわけ?」言いながら、下劣はスマホを取り出した。「俺は構わんよ、龍河洞再教育収容所に電話するだけだから。諸星、確かお前の大事な人間も収容されてたよな。不慮の事故で死んじまわなければいいな、そいつ」
ハッとして、悪魔を見上げるその様は、哀れを絵に描いたも同然だった。悪魔は、下劣は、愉快そうに笑う。諸星の目に涙が浮かんだ。
夏のオリンピックが2036年に日本で開催されることが決定したのは、2026年のことだった。これは当時総理大臣に就任したばかりであった国滅同義主導の招致による結果だった。
「ハイパーオリンピックイン東京です!」IOC会長による、TOKYO、の一声が発せられた直後、首相官邸からYouTubeのライブで発信された、国滅の肉声である。「前回、コロナ禍で行われたオリンピックは、残念なことに、不完全燃焼で幕を閉じました。そのリベンジ! 日本の威信をかけた高潔なるリベンジこそが、私の優れた招致による、2036年のオリンピック、ハイパーオリンピックイン東京なのです! 過去の愚かな指導者たちによる悪政によって、失われた40年寸前にまで追い込まれてしまった日本。その復活が、この新時代の偉大なる指導者、国滅同義によって成されるのだと、世界に示すためのオリンピック! 日本健在、日本ここにありと、世界の中心にありと、世界に知らしめるためのオリンピック! 我が沈没党による圧倒的な議席数獲得、その恩恵である圧倒的な株価高騰、俗に言う同義ちゃんブーストによって、日経平均株価は史上初めて6万円台を突破し、日本の経済は、回復の兆しを見せております。この偉大な第一歩を、世界は知らなくてはならない! ジャパンアズナンバーワンが帰ってきたのだと、知らなくてはならない! 素晴らしい有権者の皆様と、私とで手にしたこの果実を、世界の肝に刻まなくてはならない! 2036年に蘇る真の、お・も・て・な・し。世界は、知ることになるのです! 日本の素晴らしさを! 日本の美しさを! 日本の豊かさを! 日本の強さを! 有権者の皆様の、大和民族の偉大さを! 私、国滅同義の偉大さを! オリンピック特需は、我々を更なる高みに押し上げる! 人類史上最高のオリンピックを、我々で作り上げるのです・・・・・・オリンピック開催に際して、否定的な見方をする馬鹿者がいることは、承知しております。大変嘆かわしいことですが、我らの日本にそういった非国民がいることは、承知しております。だからこそ、私は声を大にして言いたい! ハイパーオリンピックイン東京は、過去最も低予算で行われると、声を大にして言いたい! 過去の愚かな体制下ではびこった汚職が、ハイパーオリンピックイン東京においては一切行われないと、声を大にして言いたい! 金メダルラッシュによって、日本が元気を取り戻すと、声を大にして言いたい! 私、国滅同義は、議員バッジをかけて、お約束いたします! 私の全力のサポートで、金メダル獲得数を81個以上にすると、お約束いたします! ハイパーオリンピックイン東京による経済効果を100兆円以上にすると、お約束いたします! ハイパーオリンピックイン東京が素晴らしいものになると、お約束いたします!」
官僚を通さずに発信されたこのアドリブは、国滅の進退がかかるというアクシデントを生み出すものとなった。そう、議員バッジのかかった三つの約束である。ハイパーオリンピックイン東京が素晴らしいものになる、この約束に関しては、問題ない。そういう抽象的な事柄は解釈で押し通せるから、問題ない。次に、ハイパーオリンピックイン東京による経済効果を100兆円以上にする、この約束。これも、問題ない。損益は幾らでも改ざんできるから、問題ない。問題は、金メダル獲得数を81個以上にする、この約束だ。金メダルの獲得数だけは、誤魔化しようがない。発言から一夜明けて、国滅はようやく、この危機に気が付いた。気が付いたら、後は速い。史上最多議席数を獲得した総理大臣として、強力なパワーを有するからこそ、ワンマンで物事を進められる。国滅は、スポーツ庁長官に電話をかけた。
総理大臣からのホットラインに、スポーツ庁長官、素派留多男(すぱ るたお)は大いに焦った。深呼吸する。深く深く、腹筋を意識して。それから、受話器をとった。
「素派でございます。国滅総理、ご機嫌麗しゅう」
「麗しいと思うか、素派よ?」地響きのような声だった。「くだらんスポーツごときで進退がかかった、それで俺が麗しいと思うか?」
自分でかけたんだろ! という至極真っ当な声を、素派は飲み込んだ。
「俺がわざわざ電話をかけた理由、分かっているな?」
「さあ、見当も付きませぬ」煙に巻きたい一心で、文部科学省に面倒を押し付けたい一心で、嘘をつく。「私程度では、国滅総理のお考えは測りかねまする」
「お前を殺す」どこぞのウイングよりも無感情な声だった。「ネタではない。比喩でもない。ハイパーオリンピックイン東京において、金メダル81個以上を獲得できなければ、お前を殺す」
有無を言わさぬのは、迫力によるものだけではなく、電話を切ったから。
ツー、ツー、ツー・・・・・・いつまで経っても受話器を耳から離せず、単調な機械音に鼓膜をいたぶられながら、素派の脳裏に浮かんだのは、一つの考えだけだった。
『生き延びるために金メダリストを養成しなくては!』
こうして、スポーツ庁による極秘計画、金メダリスト養成プロジェクトがスタートする。この計画は、日本中の優れた身体能力を有する少年少女たちを拉致するところから始まった。2036年時点で瞬発力や筋肉量などがピークを迎える20台前半になる年齢、つまり、2026年において10歳から14歳までの少年少女たちがターゲット。これにより拉致された子供の数は、583人。
全国で相次ぐ子供の失踪に、警察は5万人以上を動員し、捜査を行った。しかし、その捜査は全て、警察庁長官、汚色須流蔵(おしょく するぞう)の監視下で行われ、捜査の進展は全てもみ消され、確信に迫った警察官は全員、免職となった。そう、汚色は国滅の忠実なしもべだったのである。警察庁長官を任命する国家公安委員会、その職員の人事評価等は内閣人事局の定める指針が適用される。つまるところ、汚色を警察庁長官に任命したのは国滅と言っても過言ではない。国滅を守ることは己のポストを守ることと同義、それをしっかり理解していたから、汚色の汚職に迷いはなかった。
国家に人生を奪われたに等しい、583人の子供たち。リトルリーグ最強左腕の異名を持っていた、当時10歳の諸星も、そのうちの一人だった。
拉致された子供たちは、硫黄島に集められた。硫黄島航空基地を金メダリスト養成所と改め、そこに収容したのだ。自衛隊の最高指揮監督権を有する総理大臣、国滅の鶴の一声によって、配備されていた自衛官は全員、硫黄島を去っている。遺骨収集も、金メダリスト養成プロジェクトのスタートと同時に無期限の中止となり、硫黄島にはもう、拉致された子供たちとスポーツ庁に採用されたスパルタ指導者たちしかいなかった。硫黄島は再び地獄と化したのである。
子供たちは、33の競技ごとにグループ分けされ、違う競技の子供たちとの接触を禁止された。そうして、それぞれの競技の用語、野球グループであれば野球用語、サッカーグループであればサッカー用語、陸上競技であれば陸上用語以外の使用を禁止された。「人は国に住むのではない。国語に住むのだ」というルーマニアの思想家エミール・シオランの言葉を拡大解釈したスポーツ庁が、「金メダリストは国に住むのではない。スポーツ用語に住むのだ」の思想を子供たちに押し付けたのだ。例えば野球グループであれば、こんちには、という言葉は、プレイボール、あるいは、しゃーっす、という言葉に置き換えられる。ありがとう、という言葉は、サンガツ、あるいは、あざーっす、という言葉に置き換えられる。サッカーなら、びっくりした、という言葉は、ハットトリック、あるいは、半端ないって、という感じだ。これを24時間365日、徹底する。一言でも己が属する競技の用語以外を口にすれば、想像を絶するしごきを受けることになるという、正に地獄。娯楽の一切を排する、というのも、金メダリスト養成所の過酷さを物語る一要素だ。スマホやSwitchがないのは当たり前で、アナログ時代の娯楽品さえないという徹底ぶり。野球グループは野球だけやればいい、サッカーグループはサッカーだけやればいい、陸上グループは陸上だけやればいい、といった具合のサイボーグ養成理論で、文字通り、子供たちをサイボーグに仕立てていく。僅かでも、スマホやSwitchに思いをはせる様子を見せれば、即、しごきである。正に地獄。
言語を支配され、娯楽を奪われ、子供たちの心は壊れていった。体調不良だろうが天候不良だろうが関係なし、スパルタ指導者たちによるスパルタ練習を毎日12時間、そんな苦行に耐えてしまえるほどに、壊れていった。
国のために金メダルを取れ、その洗脳が心身に染み渡り、子供たちは着実に、金メダルを取るためだけに存在するマシーンと化していった。そうして、2034年現在も、金メダリスト養成プロジェクトはハイパーオリンピックイン東京に向けて進行し続けている。
時を戻そう。諸星の話だ。2032年、世界における普及の低さを理由に、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会は、野球とソフトボールをハイパーオリンピックイン東京の実施競技から外すことを発表した。これにより、諸星を含む野球グループ及びソフトボールグループに属する子供たちは、金メダリスト養成プロジェクトから外れ、すぐさま硫黄島から追放される運びとなったのである。
追放に際して与えられた物品は、ユニフォームとスパイクだけ。実質、裸一貫で放り出されることになった子供たちは、地獄の金メダリスト養成所が天国に思えてしまうほどの艱難辛苦をシャバで味わうことになる。
諸星蓮(れん)、2032年時点で16歳。身分を証明できず、金もなく、10歳からの言語矯正で野球用語以外を喋れなくなっている、16歳。この弱い存在に、社会は残酷なほど無関心であった。雨風に当たり続けるユニフォームはあっという間にぼろと化し、アスファルトを踏み続けるスパイクはあっという間にフラットシューズと化した。廃棄弁当で飢えを満たし、それすら通報され、留置場に入れられ、シャバに出され、廃棄弁当で飢えを満たし、それすら通報され・・・・・・の無限ループ。救いはない、しかし、諸星の目から光が消えることはなかった。
関東の地を踏んでいる恵まれない少年の向かう場所は、トー横である。これは現代日本のテンプレートである。そのテンプレートを破壊するが如く、南西へ南西へ、遥か四国を目指す諸星。故郷は、高知県高知市。帰るのだ、父と母のいる家へ。それは過酷な旅路であった。ヒッチハイク文化の存在しない日本において、金のない者に許される移動手段は徒歩だけで、東京から離れれば離れるほど交通インフラは弱まり、体の負担は雪だるま式に増していく。伊能忠敬の測量に勝るとも劣らない、過酷。それでも、金メダリスト養成所で嫌というほど鍛えられた体力を生かし、無茶な行歩を続ける。そうして、広島県に入り、しまなみ海道を渡り、愛媛県を経由して、ようやく、高知市にたどり着いた。
拉致される前の記憶は、鮮明だった。父と母、優しい二人と過ごした日々が、地獄を生き抜く支えだった。閑静な住宅街、小さいながらも幸せがつまった一戸建て・・・・・・記憶は、鮮明だった。鮮明だったからこそ生じる、混乱。確かに、ここが自宅のあった場所で間違いない。肌感覚で分かる。そうだというのに、見える景色は記憶のそれと全く違う。慎ましい一戸建てやアパートなんかは影も形もない、タワーマンションが空を覆い隠す、文字通りの別世界。
タワーマンションのエントランスから、男が二人、出てきた。二人とも、金持ちとは縁遠い身なりをしていて、中国語を話していた。
諸星の存在に気が付いて、男たちは哀れみの表情を浮かべた。一人が、懐からチョコレートを取り出し、諸星に差し出した。諸星は、チョコレートを受け取り、立ち尽くした。男たちは去っていった。
拉致されてから初めて、慈悲をかけられた。チョコレートを食べるのも、拉致されてから初めて。甘くって、ちょっぴり切ない味。その優美が口内から去って、後には絶望だけが残った。
拉致が起こって直ぐに、諸星の両親は諸星を探し始めた。警察の捜査に不信を覚える鋭さで、他の拉致された子供の親たちと協力し、個人レベルを超える範囲で探した。当然、それを心よく思わないのが、汚色であり、スポーツ庁であり、国滅である。そうして始まった、拉致された子供の親たちに対する攻撃。税金による1兆円規模の資金を投じ、メジャーなプラットフォームで拉致された子供の親たちの誹謗中傷をバズらせる。親が子供を殺して隠した、親が子供を人身売買で外国に売った、親がカルト宗教の生贄に子供を捧げた、等々、100パーセント嘘で作られた情報を日本中に広めていく。これにより、拉致された子供の親たちが受けた精神的苦痛は尋常なものではない。ただでさえ、子供を失って苦しんでいる親たちなのだ。彼らの心が次々と折られていくのは、必然だった。醜悪極まりないネット攻撃、それにもめげず、子供を探し続ける親たちに対しては、リアルな攻撃を加える。捜査妨害と称した逮捕および勾留である。更には、刑法改正を行い、公務執行妨害罪の解釈を拡大し、警察の注意に従わない人間に対しての即発砲を可能とする。これにより38スペシャル弾を撃ち込まれた親の数は、4人、このうち1人は死亡している。ここまでくるともう、子供たちを探し続けられるわけがない。諸星の両親も、諸星を探すことを、続けられなかった。そうして、諸星の15歳の誕生日、諸星の両親は、絶望の果てに、自ら命を絶った。
両親の死を、諸星が知るすべはなかった。それでも、もう二度と会えないことは、悟れた。悟れてしまった。ふらふらと、諸星の足は進んだ。ふらふら、ふらふら、ふらふら・・・・・・気が付くと、土佐清水市。眼前には、断崖絶壁。
海に吸い込まれるように、上体が傾いた。そんな諸星の体を、駆けてきた老人が、抱きしめた。
「死ぬんじゃねぇ!」
老人の叫びが、老人の温もりが、沁みた。諸星は、両膝を着き、泣いた。泣き止むまで、老人は諸星を抱きしめ続けた。
近くの駐車場まで一緒に歩いて、老人は、ぼろぼろな少年を軽トラの助手席に乗せてやった。そうして、車を発進させようとして、エンストを起こして、老人は茶目っ気たっぷりに笑った。つられて、諸星も笑った。拉致されてから初めての笑いだった。
老人の名は、梶谷一刀斎(かじや いっとうさい)、高知県香美市で土佐打刃物を作り生計を立てている職人だった。梶谷は、諸星を弟子として自宅兼鍛冶場に住み込ませた。衣食住の面倒を見てやって、なおかつ、月に手取り13万円を渡してやる、温情。伝統工芸一本で食っているから、金銭的余裕などは皆無で、しかし諸星に最低限の生活をさせてやりたい一心で、貯金を切り崩す、温情。十歳のころから野球しかさせてもらえなかった16歳に、炉のインハイに時速100マイルで鉄鋼を投げ込んでしまう16歳に、野球用語以外の言葉を持たない16歳に、根気よく、自分が持つ技を、魂を、伝えてやる、温情。温情、それは、金メダルを取るためだけに存在するマシーンを人間に返らせた。梶谷の弟子になって二年が過ぎたころ、諸星は炉のインハイに時速100マイルで鉄鋼を投げ込んだりすることがなくなり、野球用語以外の言葉も取り戻していた。
「蓮。お前に渡したい物があるんだ」
2034年7月上旬、夕飯の席で、梶谷は質の良い金槌を一丁、諸星に手渡した。
「これ、凄く良い物ですよね」金槌の善し悪しが分かるようになっている諸星だった。「親方。こんな良い物、もらってしまっていいんですか?」
「見習い卒業の記念だ」
諸星は、立ち上がり、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、親方! 本当にありがとうございます!」
「いいから、座りねぇ」照れて、真っ赤になる。「ほれ、俺がチャーくんを全部食っちまうぞ」
言われても、頭を上げられなかった。感謝ゆえに、そうして、涙を見せないが為に。
「明日からは、蓮が作った土佐打刃物も売り物になるんだ」梶谷も涙を見せないよう、俯いた。「ちゃんと食べて、精をつけな」
細やかな食卓を囲む、幸せ。老人と青年、寂しさの影は纏いつつも、そこに確かに存在する、絆。
ヒグラシが、鳴いている。
「蓮、初めてお前に会った時な、俺は、死ぬつもりでいたんだ」
悲しい声なのに、顔は穏やかだった。諸星は梶谷を真っすぐ見詰めた。
「孫がおってな。早くに両親が事故で亡くなっちまって、俺が親父代わりになって育てた孫だ。妻も死んじまっているから、俺にはこの世で唯一の肉親だった。その子は、自衛官になって、それで、この前の中東戦争で、死んじまった。だから、俺も死のうと思った。だけど、蓮、お前と出会った」
日本酒の瓶に伸ばした手は、震えていた。諸星は瓶を掴み、拙い酌をしてやった。
「お前に酌をしてもらえるなんてな」言って、ぐいっと飲み干す。「死なねぇで、よかった」
「俺も、同じ気持ちです」
「すまねぇなぁ、蓮。お前に残してやれるものが、土佐打刃物だけでよぉ」この二年間は少量ずつしか飲まなかったのに、今日に限って余計に飲んだから、酔いが回った。「職人の未来は、見えねぇ。AIの普及が一向に進まねぇ日本だから、今はまだギリギリで食えているが、それだって、後十年も続くものじゃねぇだろうよ。儚いものしか残してやれねぇ俺を、許してくれ」
「謝るなんて、よしてください!」諸星は、再び立ち上がり、さっきよりも更に深く、頭を下げた。「俺、親方が与えくれた技を、魂を、ずっと、ずっと、残していきます! AIには作れない、人間にしか作れないものがあるから! 土佐打刃物は永久に不滅です!」
男は涙を見せるもんじゃねぇ、なんて格好つけてはいられなかった。梶谷は、泣きに泣いた。諸星も、もう涙を隠せなかった。
そうして、翌日。見習いとしてではない、職人として鍛冶場に入った諸星。十年愛用したかのように馴染む金槌を振り上げた、その時、全長20メートル超えのリムジンと数台のセダンが庭に入ってきて、金槌が鉄鋼を打つ音は、響かなかった。
セダンからガタイの良い男たちが降りてくる。そうして、リムジンから降りてきたのは、小太りな男、下劣杉男だった。
「お前だな、金メダリスト養成所で野球サイボーグに仕立て上げられた男というのは」下劣が諸星に向ける目は、小動物を弄ぶ幼児のそれに似ていた。「喜べ、野球サイボーグ。お前の力をこの下劣杉男様のために役立たせる機会ができたぞ」
既に邪悪は感じ取っていた。諸星は、金槌をテーブルに置いて、表に出た。
「話が見えません。あなたは、どなたですか?」
「俺様を知らないだと!? この下劣杉男様を知らないだと!? 貴様、それでも高知県民かぁ!?」下劣の怒りのボルテージが一気に限界を突破した。「この無知がぁ! いいか、一度しか言わないから、その足りないオツムを叩き起こして、よぉく聞け! 俺様は、沈没党青年局局長、衆議院議員、第22回夏の公私宴高知県選挙区代表キャプテン、下劣杉男様だ!」
その口上で、全てを理解した。沈没党の人間・・・・・・俺を拉致した政府の人間・・・・・・俺の人生を奪った奴ら・・・・・・。
怒りが、諸星の両手を拳に変えた。
「諸星! お前には高知県選挙区代表の一員として、沈没党のため、俺様のため、戦ってもらうぞ!」
「断る!」当然の返事だった。「俺は、お前たちの利益になるようなことなど絶対にしない!」
「こいつは一体、何の騒ぎだ?」
ちょうど、梶谷が表に出てきて、下劣は笑みを浮かべた。
「貴様がここの責任者だな。おい、どうなっているんだい? 従業員に対する教育は、どうなっているんだい? 沈没党に、ひいては日本国に対する非従順を示したぞ、貴様のところの従業員は。これは、監督者である貴様に、再教育が必要だな。正しい職業倫理を学ぶための、再教育が・・・・・・沈没党青年局局長、下劣杉男が命じる! このじじいを龍河洞再教育収容所に収容しろ!」
脊髄反射で、ガタイの良い男たちはステンレス製の結束バンドを懐から取り出し、駆け出した。
「逃げて、親方!」
諸星の声も空しく、年老いた体は容易に捕まり、その手足は瞬く間に拘束された。
諸星は梶谷を助けようと、梶谷を担いだ男に攻撃を試みたが、その拳が届くより先に、他の男に羽交い絞めにされてしまった。悲痛な叫びが、物部川のせせらぎをかき消した。
男の一人が、警棒で諸星のこめかみを殴った。
意識が混濁して、首が力なく垂れる。
「やめろ! やめてくれ!」
「公私宴の本選まで一か月を切っているんだ、程々にしろ」梶谷の必死な懇願は、下劣にとって甘美なBGMでしかなかった。「殺さない程度にしろ」
待ってましたと言わんばかりに、男は連続で諸星を殴った。他の男たちも加わって、順番に殴る。
鼻や口、頬からも出血して、飛び散ったそれが、イチヤクソウを赤く染めた。
暴力を嗜む者の常識として、顔は殴るな、というものがある。これは、目立つ場所の怪我によって暴力が露呈しやすくなることを嫌う邪悪な知恵である。故に、真っ当な法治国家にあっては、体を殴るのが基本。しかし、法が歪められ、権力によって暴力が肯定される国家にあっては、悪しき者たちは罰の恐怖から解放される。倒れた諸星の腫れ上がった顔は、その惨状を物語っていた。
気絶していても全くおかしくない状態にあって、諸星は、意識を繋ぎとめていた。偏に、梶谷を思い、助けようとしているからだ。しかし、体はもう、梶谷に向かって手を伸ばすことしかできなかった。
「蓮! 俺のことは気にするな!」セダンのトランクに押し込まれながら、梶谷は声の限りに叫んだ。「お前の人生だ! お前自身のために、生きろ!」
トランクが、閉められた。梶谷を乗せたセダンが、庭から出て行った。
下劣が、諸星に近付き、その血だらけの顔を、踏みつけた。
「分かっているな。お前は俺様のために戦うんだ。それが嫌なら、あのじじいが死ぬことになるのだ。分かっているな」
いつの間にか、灰色の雲が青空を隠していた。じきに、大きな雨粒は諸星の体をも隠した。
炉の火が、自然と、消えた。
涙を、拭う。梶谷のために生きることが自分のために生きることなのだと、そう思っているから。
諸星は、立ち上がり、「やります」と口にした。
下劣は、満足そうに笑い、ダッグアウトへと歩いて行った。
井口は、「いいのか、諸星さん」と言い、しかしすぐに俯いて、「いや、すまない」と声も落とし、諸星に背中を向けた。
井口がキャッチャーボックスに向かって歩き出すと、他の高知県選挙区代表の面々も各々の守備位置に戻っていった。
主審のコールで、プレイが再開される。大きく振りかぶる、諸星。
金メダリスト養成所で味わった野球地獄、そのトラウマが未だに強く残っていて、けれど諸星は、野球を愛していた。何故か? 拉致される前、野球人生の根っこに、素晴らしい思い出があるからだ。父はよくキャッチボールの相手をしてくれた・・・・・・母はよくバッティングセンターに連れて行ってくれた・・・・・・両親はいつだって全力で応援してくれた・・・・・・だから、野球を憎んだりは、決してしない。故に、ビーンボールを投げる苦痛は強まる。ビーンボールは野球への冒涜だと理解しているから。それでも・・・・・・。
「親方ぁ!」
絶叫とともに、全身全霊を込めたストレートが、投じられた。
160マイルをも超える速度で進んだ球は、漢咲のこめかみに直撃した。
「よぉし!」下劣の声が轟いた。「死んだ!」
球は、吸い付いているかのように静止した後、ようやく、万有引力に従って地に落ちた。
僅かに転がった球の、縫い目が赤く染まっていた。それは、強く握り過ぎた諸星の、悲しい血潮だった。