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異世界

異世界 第7話 眠れない夜

 星明りだけでは広大な谷を隅々まで照らすには不十分で、魔法の明りが守り人の里を照らす主だった。
 「ギデオンの家は無事だったな?」ロトがジャックに向かって言った。
 「ええ。損傷は僅かです」
 「サラと共に、ギデオンの家に来い」命じてから、ロバートを見やる。「狭いところになりますが、ご案内いたします」
 ロトの馬の並足が少し速まった。それに、ロバートたちは続いた。
 ジャックは馬を走らせた。ロトたちを追い抜き、広場に出る。
 「ジャック!」
 マリーに声をかけられて、ジャックは馬を止め、顔をしかめた。
 「あれ? 見ないと思ったら」ジャックの後ろに大樹の姿を見つけて、言う。「こんなところに」
 「こいつは里の外に出ていた」
 「あれま!」
 「あれま、じゃないだろ。誰も見張っていなかったなんて、有り得ない話だ」
 「しょうがないだろ。手の空いている人間なんていないんだから」
 ジャックは、悪態を飲み込んで、大きく息を吐いた。
 「祖母ちゃんは、どこにいる?」
 「母さんなら、そこさ」
 マリーが指した先には、赤い髪の老女が立っていた。
 ジャックは馬を降りた。
 「馬屋に戻しておいてくれ。それと、このおっさんからは二度と目を離すなよ」
 歩き出そうとして、軽い立ちくらみを起こし、額に手を当てる。
 「少し休みな!」マリーはジャックの背中をさすった。「今朝も、戻ってきてすぐ、カラバロンク城へ向かったんだ。そこでもずっと、偉い人たちと話をしていたんだろう。昨夜、酷いことがあったばかりなのに・・・・・・」
 震えた言葉尻に、舌打ちだけが返された。
 ジャックは赤い髪の老女に駆け寄った。
 「祖母ちゃん。ロト長老が呼んでいる。ギデオンさんの家だ」
 「待たせておきな」赤い髪の老女、サラは言った。「食事の用意の最中だ」
 サラを含む十人ほどの男女が、大きなカボチャの皮をナイフでむいていた。むき終えた物は、まな板に載せて、刻み、つぶす。
 下ごしらえの済んだカボチャは、牛乳、水、塩と共に真鍮の深鍋に入れ、即席の三脚に吊るす。石を用いた、これまた即席のかまどが、深鍋を熱する。
 ジャックは腕を組み、三分ほど、待った。
 「どれだけ待たせる?」痺れを切らし、尋ねる。
 「熾火で温めながら、よくかき混ぜるんだ」ナイフの刃に緋が映えた。「仕上げにレンズ豆を加えて、更に温める。そいつを後、深鍋三個分だ」
 「ロバート様も来ている」
 「ならば尚更、待たせておけばいい」
 「ブロンテ老師もジュダヌスも死んだ今、助役は祖母ちゃんだけだ。里のこれからのためにも、責任ある行動をとってくれ」
 サラは、ジャックをまじまじと見詰めた。
 「随分と真面目くさったね」
 眉尻を下げる。それから、手持ち無沙汰な若い男をつかまえ、カボチャとナイフを押し付けた。
 「私はここを離れる」
 若い男だけでなく、ジャックも肩をすくめた。
 ジャックは若い男に頭を下げ、さっさと歩き出していたサラに続いた。

 「話に聞いたより、酷い有様だ」倒壊した建物を見やりながら、ロバートは言った。「ジュダヌス老師の召喚魔法は、本当に恐ろしいものだったのですね」
 「倒壊を免れた家屋は、四軒のみです」その内の一軒を、ロトは指差した。「あちらでございます」
 表の架構に馬をつなぎ、四人は家屋に入った。
 「本当に、狭い!」
 はしゃいだロバートの背中をねめつけて、懐から短剣を抜き出す。
 ブライアンが、ロトの手首をつかんだ。
 「誤解です」落ち着いた声だった。「明りを点そうとしたまでのこと」
 「私がもう一度、点す」
 ブライアンは剣を抜き、呪文を唱えた。室内に光が満ちる。
 短剣は、懐に戻った。
 「ロバート様、ブライアン様、お椅子にどうぞ」
 「ロト長老こそ、どうぞ」ロバートはベッドに腰を下ろした。「まだ若い私は、これで十分」
 「この家の人は・・・・・・」衣装棚の上のぬいぐるみを手に取ったエルが、言った。「この子は、無事?」
 「娘は、無事です」ロトは椅子に座った。「父親は、昨夜のことで命を落としました・・・・・・母親は、三年前に」
 元あった場所に戻したぬいぐるみ、その頭をなでる。
 「ベッドがもう一床ある」剣を机の上に置き、革表紙の手帳と鉛筆を巾着から取り出して、ブライアンは言った。「座れ」
 エルは言われた通りにした。
 「直に、老師のサラがやってまいります」
 その待ち時間には、ロバートの子供じみた声だけがあった。
 少し乱暴に、ドアが開かれた。そうして家屋に入ってきたサラは、ロバートを見下ろし、鼻を鳴らした。
 「無礼だぞ」
 ロトの叱責を意に介さず、サラは壁に寄り掛かり、腕を組んだ。
 「どうぞ、ご婦人」ロバートが立ち上がった。「ベッドにお座りください」
 「長居するつもりはないんでね。このままで結構」
 「サラ!」
 「まあまあ、ロト長老」笑顔で座り直す。「そう怒鳴ったりしないで」
 小さなため息がロトの口から漏れ出た。
 家屋に入ってきたジャックが、閉めたドアを背もたれ代わりにして座り込んだ。
 「二十時間ほどが経過した今、人的被害の把握は済んでいるな」ブライアンは黒鉛をなめた。「サラ老師?」
 「死者二十八人。ユスターシュ・ドージェの追跡に向かった者も合わせれば、三十五人だ」
 「怪我人は?」
 「二十六人」
 「その内、重傷者は?」
 「重傷者の定義が分からないね」
 「労働力として数えられない者ですよ」ロバートが言った。
 止まった鉛筆、その筆先にある開かれた手帳を盗み見ようとして、サラは首を傾けた。
 ノドがサラの死角になるよう、手帳が動く。
 「七人だ」サラはロバートに視線を移した。「建物や農作物、家畜の被害も聞くかい?」
 口を開き掛けたロバートを制するように、「聞こう」とブライアンが言った。
 「倒壊した家屋は三十五棟。畜舎、浴場、便所には被害なし。農作物の被害は、果樹が七本、駄目になった。収穫期に入ったばかりのサクランボの被害が最も大きい。麦も大きな被害を受けている。全体の三分の一が駄目だ。他の野菜等の被害は少々。家畜の被害はほぼなし。全て畜舎に入れてあったのが要因だ。ユスターシュ・ドージェの追跡に用いた馬八頭とゲイブに持っていかれた一頭を失ったのみ」
 「馬九頭は大きな被害ですよ!」抑揚の乱れたロバートの声。
 「可能な限り援助しよう」
 「お付きの方はこう言っているが」あごでブライアンを指す間も、サラはロバートから目を離さなかった。「よろしいので?」
 ロバートはブライアンをちらっと見て、それから、頭をかいた。
 「実務などは、ブライアン以下家臣の者に任せております」
 「そいつはいいご身分だ」
 「八つ当たりするなよ、祖母ちゃん」ジャックの瞳は、窓からのぞく闇夜だけを映していた。「こうなったのは、ロバート様のせいじゃない」
 サラは、指先を遊ばせながら俯いた。
 「大まかな被害は把握した」手帳をさかのぼる。「次は、昨夜起きたことを再確認したい。サラ老師、私の認識に不足があったならば、付け足してくれ」
 言われて、顔を上げる。
 「里の助役ジュダヌスが、ユスターシュ・ドージェの不朽体を用いて転生魔法を行った。魂の器となったのは、ゲイブとスザンナの子、ダビデ」
 ジャックのこぶしが強く握られたのを、サラは見逃さなかった。
 「転生魔法に使用したことで、不朽体は消滅。転生したユスターシュ・ドージェはゲイブに連れられ里から逃走。追手を食い止めるべく、ジュダヌスが召喚魔法を使用。里の主な被害はこれによるもの」
 「ジュダヌスの死因は召喚魔法の使用だった。外傷がなく、心臓を失っていたからな。それから・・・・・・」
 言い淀んだ後、サラはジャックに近付いた。
 「外に出るか、ジャック?」
 「続けろよ」ジャックは手を開いた。「続けてくれ」
 サラは、ジャックに背中を向けた。
 「スザンナの死因は、腹部への刺し傷による失血。傷口と、ジュダヌスの懐から見つかった短剣の刃形は完全に一致した」
 「里の内部に、他の協力者はいないと言いたいのか?」
 「あんたにとっては面白くない事実だろうがね」
 反論を口にしかけるも、ブライアンは鼻を鳴らすだけにとどめた。
 「この凶行に加担した里の人間は、ジュダヌスとゲイブ、二人だけだ」再び壁に寄り掛かる。「里の中での犯人捜しはお仕舞い。後は、里の外、あんたたちの仕事だ」
 「善処する」そう言って、手帳に目を戻す。「ジュダヌスの召喚魔法が発動する前に、ユスターシュ・ドージェを追ったアベル、ベンジャミン、ウリエル、マシュー、ザカライアの五人は、チャーモロー平原にて、ゲイブおよび里の外の協力者によって殺害された。この五人の死体は、ジュダヌスが召喚した怪物を撃破後にユスターシュ・ドージェを追ったジャック、ブロンテ、カフカの三人が発見。死体発見後、戦力の増強を図り、ブロンテが召喚魔法を使用する。しかし、召喚魔法は失敗。黄色人を呼び寄せてしまう。ここまで間違いはないな、ジャック?」
 「ありません」
 「よろしい・・・・・・召喚魔法の失敗に気付かず、黄色人を戦力に数え、四人で追跡を続行。そうして、自治領の認知しない港に到着。その時点で、港には大量の死者が存在した。おそらくは、ゲイブおよび里の外の協力者による凶行。港を一望できる丘で援軍を待ったジャックたちは、ゲイブに背後をつかれたあげく挟み撃ちとなり、交戦に。ブロンテ、カフカの二人がこの戦闘で死亡。カフカが里の外の協力者を一名殺害していたが、その者の死体はカフカ共々、後の津波によって海に流された」億劫そうに、襞襟を外す。「ジャックが拘束されている間に、ゲイブたちは別勢力と戦闘を開始。これにより、ユスターシュ・ドージェは別勢力の手に落ちたものと思われる。別勢力は海路で逃亡。ゲイブたちは陸路で逃亡・・・・・・あらましは、こんなところか」
 ブライアンはジャックを見やり、それから、手帳を閉じた。
 「当然、追跡に部隊を派遣なされたんでしょう?」サラが言った。
 「亡きマクヘダッド王に忠誠を誓うスコラドアの諸侯が有志を募った。ゲイブたちに4名が、別勢力に8名が、既に追跡にあたっている」
 「随分と小規模じゃないか。世界を滅ぼしかねないユスターシュ・ドージェの追跡だっていうのに」
 「里の外にはローハ帝国の目があるのだよ、サラ。大きな部隊など動かしようがない」
 「そうかい。そう言うなら、信じるよ。ウォレス家の求心力が衰えていないことを祈りながら」
 サラの嫌味に、ロバートは愛想笑いを返した。ブライアンが首を横に振った。
 「カラバロンク城でも示しました通り、転生したユスターシュ・ドージェに関する処置はウォレス家に一任いたします。これは守り人の里の代表である私の決定です」ジャックの舌打ちを無視して、ロトは続けた。「ここからは、里の復興、そうして、里の未来について、具体的なお話しをさせてください。ロバート様が里に御出でになることなど滅多にございませんから、里の現状を肌で感じておられるうちにお話しするのが最良と存じます」
 「ロバート様はお疲れだ」
 「私は大丈夫。元気だよ、ブライアン・・・・・・」
 「お疲れだ」
 ロバートは肩をすくめた。
 「それでしたら、今晩はゆっくりとお休みになっていただき、お話しは明日に、お願いいたします」粛々とした口の動きは、髭にすっかり隠れていた。「ロバート様に御参列いただく、犠牲者の埋葬は、どれだけ急いでも準備が整うのは明日の正午過ぎ。時間は、あります」
 暗い瞳を見据えて、ブライアンは、「分かった」と言った。
 「ありがとうございます」ロトは立ち上がり、深々と頭を下げた。「御三方とも、今夜はこちらでお休みください。ただ今、ベッドをもう一床、用意いたします」
 「必要ない。私は椅子で寝る」エルが言った。
 「よろしいのですか?」ロトはブライアンに尋ねた。
 「椅子で十分だ」
 「かしこまりました。何かご入用でしたら、いつでも里の者にお申し付けください」
 ロトを尻目に、サラはさっさと家屋を出て行った。軽く頭を下げてから、ジャックも出て行く。
 「二人の無礼をお許しください」恭しく表に出て、ドアノブをつかむ手は、力んでいた。「それでは、失礼いたします」
 ドアは、ゆっくりと閉められた。

 換気がよく広々としていて、家畜は全て健康、雑食性の豚も餌は植物のみ。それでさえ、畜舎のにおいは強烈で、大樹は露骨に顔をしかめた。
 「なんて顔をしているんだい」笑いながら、マリーはストールの入り口を開いた。「ほら、いい加減、降りな。馬と一晩を共にするのは嫌だろう」
 数頭の馬に凝視され、大樹は慌てて下馬を試み、着地に失敗して尻餅をついた。
 マリーは一層、笑った。そうして、涙をぬぐった。
 畜舎から出て行くマリーを、大樹は急いで追いかけた。
 畜舎のそばでは、牧畜犬が九匹、身を寄せ合いながら体を休めていた。そのうちの一匹が、尻尾を振り、走り出す。
 過剰に身をかわした大樹など気にも留めず、犬はマリーの足元まで一直線に進んだ。
 「チャンプ! 目を覚ましたんだね!」足元でじゃれるチャンプの背中をなでる。「一日中、寝てただけあって、元気だ!」
 一しきり構ってもらうも、満足せず、チャンプはマリーに付いて歩いた。
 日のあるうちに踏み固められた放牧地が、丘陵から吹き下りてくる風でなびいた。
 舞った牧草が、大樹の前髪にくっついた。少し肌寒く、くしゃみが出る。
 小川に架かる橋、その手前でチャンプは踵を返した。
 橋を渡った先は黒土がむき出しの地表で、疲れた脚には酷だった。
 大樹が不平をこぼし始めたころ、マリーは一基の井戸の前で足を止めた。深さが40メートルほどある釣瓶井戸だ。
 縄も、滑車も、マリーの腕も、みしみし鳴った。そうして汲み上げた水を、手ですくい、口に運ぶ。
 「生き返るね」マリーは汗をぬぐった。「あんたも飲みな」
 桶を差し出され、大樹は恐る恐る、水をすくった。少量、口に含んでみる。とても冷たい。一思いに飲み込んで、後はもう警戒も解けて、大樹は何度も水をすくい、飲んだ。
 「悪さなんてしないだろうね、あんたは」空になった桶を井戸の縁に置きながら、マリーは言った。「見張りが必要なのは、ブロンテ老師が残していった使い魔どものほうさ」
 濡れた髭を大樹はぬぐった。シャツの袖に染みが出来る。
 真っ黒な髪に、赤い髪が触れた。
 のぞき込むような青い瞳にどぎまぎして、茶色い瞳は泳いだ。
 「あんたは、ここに、いる」真剣な顔で、マリーは丁寧に、はっきりと発語した。「この谷から、出ては、いけない」
 大樹は、徐に目を閉じて、唇を小さく突き出した。
 マリーは大きなため息をついた。
 「言葉が通じないっていうのは、本当に厄介だ」大樹から顔を離す。「放っておくわけには、いかないんだね」
 うっすらと、目が開けられた。
 「いつまで変な顔をしているんだい!」
 マリーは大樹の肩をたたき、手招きをした。
 耳まで真っ赤にして眉を吊り上げるも、結局、大樹はマリーに付き歩いた。
 マリーは広場に向かっていた。
 たき火が燻って夜空に溶けていくのを、大樹は見やった。そのまま歩き続け、不意に、腹がぎゅるぎゅると鳴る。後には、腹痛があった。か細い悲鳴が漏れた。
 この地の井戸水は硬水だった。日本でしか生活をしたことがない大樹は、水に当たり、腹を下したのだ。
 しぼり出した小さな声は、マリーの耳に届かなかった。切羽詰まり、内股の小走りで距離を詰める。
 肩に手を置かれ、振り向き、マリーは悲鳴を上げた。
 顔面蒼白で、目を血走らせながら、自身の窮状を口早に訴える大樹。
 「急に何だっていうんだい!?」気圧されながら、マリーは大声を出した。「何を言ってるか分からないよ!」
 大樹は涙目になり、項垂れた。
 再び、腹がぎゅるぎゅると鳴った。
 「あんた、もしかして、うんこ?」
 言うや否や、マリーは大樹の手を取り、大股でずんずん進んだ。
 どこへ連れていかれるのかも理解しないまま、一歩を踏み出すたびに便意の苦悶が強まって、しかし大樹は薄ら笑いを浮かべるだけで全く抵抗しなかった。
 400メートルほど真っすぐに歩いて、北西の丘陵付近にまでやってきた。そこには二棟の建物が立っている。1800平米ほどの建物と、200平米ほどの建物だ。二棟とも屋根がガラス張りになっていて、大きい建物のほうには煙突が数か所設置してある。
 小さい建物のほうには入り口が二つあり、そのうちの一つを指差して、マリーは大樹の手を放した。
 この時点でようやく、大樹はマリーの意図を理解した。それでも、便所にしては大きすぎる建物に不安をぬぐえず、ドアのない入り口を通る足は便意の限界に達しつつも慎重だった。
 星明りを良く通すガラスで、内部は多少明るく、広い部屋の壁沿いに石造りの長椅子が置かれているのを大樹は視認できた。その長椅子の座面には等間隔で幾つも穴が開いている。近付いて、穴をのぞき込む。果てしなく深くて、底なんか見えない。
 困惑を、便意が上回った。ズボンを下し、石造りの長椅子もとい便器に座る。そうして、水のような便を穴の中へ落としていく。
 大樹は、大きく息を吐いた。
 尾を引く下痢で、しばらくは便器から離れられなかった。そのうちに、一人の男が部屋に入ってきた。
 目が合って、大樹と男は同時に悲鳴をあげた。
 男は、大樹の様子をうかがいつつ、ズボンを下した。それから、スブリガークルムを解いて、下半身を露にし、便器に座った。
 穴を九つも隔てて座りながら、大樹は陰部を両手で隠し、尻を強く引き締めた。
 男は素早く排泄を済ませ、そばに置いてあった葉っぱで尻をふいた。使用した葉っぱは穴に捨てる。
 忙しい手付きでスブリガークルムを結ぶ。そうして、男はズボンを上げつつ便所から出て行った。
 大樹は首を横に振り、笑いながら頭を抱えた。
 徐に、ガラス越しの夜空を見上げる。戯れに星座を探して、やはり知っているものは何も見つからなかった。
 ようやく、下痢が収まった。大樹は葉っぱを一枚手に取り、まじまじと見詰めた。種類さえ分からず、分かることといえば、やけに清潔だということだけ。それをゆっくりと尻に当ててみる。アロエの葉みたいな弾力、カシワの葉の表面みたいな肌触り。まるっきり、上質な海綿だ。
 尻をふき、葉っぱを穴に捨てた。ズボンを上げる。ふと、頬が濡れていることに気が付いて、自分が泣いていることに気が付いて、しばらく、むせび泣いた。
 便所を出る。マリーと目が合い、大樹はすぐに顔を逸らした。
 マリーは、湿ったハンカチーフを巾着に仕舞った。
 ざわめきが耳に、芳香が鼻に、届く。広場で調理している人々からは、そう離れていなかった。
 マリーの腹が、ぐう、と鳴った。大樹は空腹を強く自覚した。
 マリーが歩いていくのに当たり前のように付いて行って、人込みですぐ、辟易する。周囲からの視線ににじむ嫌悪感で、一層、身が縮む。
 「代わるよ」腕まくりをしつつ、マリーは女に声をかけた。
 「助かるよ、マリー」カボチャと包丁を手渡す。「やれやれ、手がまめだらけになっちまった」
 既に食事を済ませている子供たちが、かまどの近くで駆けまわっていた。革のボールを蹴っている。革の中身は、空気で膨らんだ豚の腸だ。
 「もっと遠くでやりなさい! 火を使っているんだから!」女が言った。「マリー、後は鍋一個分だけだ。それで全員に行き渡る」
 「了解」
 弱まった熾火に薪が加えられる。爆ぜる音が強く、火の粉は乱暴に踊った。
 気が休まらぬまま、大樹は地べたにへたり込んだ。痛みすら鈍った足を投げ出す。
 「代わりな」広場に戻ってきたサラが、若い女からカボチャと包丁を引ったくった。
 「お疲れでしょう、サラ老師。もう済みますから、私が最後までやります」
 「カボチャでも切り刻んでいなくちゃ、やってられないんだ」そう言って、若い女からジャックへと目を移す。「あんたはどうする?」
 「奴を見張る」大樹を顎で指す。「お袋には任せられない」
 調理と同時に配給も進んでいた。
 温かい食事で、人々は少し綻んだ。
 やがて、調理が終わり、最後の深鍋も徐々に空いていった。
 カボチャのスープを椀によそい、スプーンも持って、マリーは大樹に近付いた。
 「そいつに食わせるのか?」
 「そんな意地の悪いことを言う子に育てた覚えはないよ!」
 大樹は、差し出された椀とスプーンを受け取り、小さく頭を下げた。
 スープを少量、口に含み、飲み込んだ。味が薄い。それでも、スプーンは椀と口を行き来し続けた。
 「あんたも食べちまいな。二杯目に手を出す人もいる。あんたの分がなくならない保証はないよ」
 マリーの声を、ジャックは無視した。
 熾火に灰が被せられた。老人が、かまどのそばに鉄の棒を刺し、呪文を唱える。鉄の棒は光を放ち、周囲を照らした。
 勢いよく飛んできたボールが、不規則に転がり、大樹のそばで止まった。
 駆け寄ってきた少女が、ボールを拾い上げて、大樹を見やった。
 少女は、視線を落とし、それから、マリーのコットをぎゅっとつかんだ。
 「どうしたの、シーナ?」マリーは少女に優しく声をかけた。
 「お父さんの、靴・・・・・・」シーナは、泣き出した。「知らないおじさんが、お父さんの靴はいてる!」
 甲高い泣き声は澄んだ夜気によく通った。
 それまで盗み見していた人たちさえ、遠慮なく大樹を注視し始めた。はっきりとした非難の声も聞こえ出す。
 恐怖の余りに立ち上がり、椀とスプーンを落とす。土に橙色が染みた。
 ジャックが、大樹の襟をつかんだ。
 「こいつの寝床は?」
 「滝のそばだよ」ジャックの問いに、マリーが答えた。「テントを張ってある」
 乱暴に引っ張られ、大樹はジャックに付いて歩いた。
 広場を出て、周囲に人がいなくなってから、襟を放す。
 なおも歩を止めないジャックに、大樹は躊躇しながらも続いた。
 はねた繁吹きが革のブーツを濡らす。仏頂面で、ジャックはテントを指差した。大樹は肩をすくめ、指示に従った。
 テントの中は真っ暗で、空っぽ。横になって、固い土が不愉快で、すぐに起き上がる。
 テントから顔を出してみて、闇夜に鋭い眼光を見つけ、すぐに顔を引っ込める。そうしてまた、横になった。
 亜麻布に透けるぼんやりとした夜空。それを、じっと見詰める。白ずむまで、ずっと。